2月20日号    『ぼくらの未来に全力投球』

 東京都内で取材やら打ち合わせがあるときは、ほとんどの場合クルマを使わず電車に乗る。逗子駅で横須賀線に乗って東京駅までちょうど1時間。わたしにとってはちょうどよい息抜きの時間である。この間、景色を眺めながらぼんやり物事を考えたり、雑誌をまとめ買いして読んだり、居眠りしたりと、ふだん仕事場でキリキリ仕事をしている状態ではとてもできないことをやって過ごす。もちろんときには取材の準備をしたり締め切りスレスレの原稿を書いたりすることもあるけれど、電車に乗っている時間はわたしにとって、かなり嬉しいひとときである。
 
 ところが、横須賀線に乗って神奈川と東京の県境である多摩川を渡る手前に小学校があって、その小学校の校舎にでかでかと張り出してあるスローガンが、いつもわたしを複雑な気持ちにさせるので困っている。なんと、そこにはこう書かれているのだ。「ぼくらの未来へ全力投球」

 もう思い出すだけでわたしは暗澹たる思いにとらわれる。一体全体、これは何を言いたいのだ? 未来へ全力投球? これを毎日眺めて暮らす子供たちは、具体的に何をすればいいんだ?

 おそらく「キミタチには未来が広がっているのだから何事にも全力を尽くしてガンバロウ」と言いたいのだろう。だがそれは余計なお世話というもの、少なくとも学校のスローガンにすべき目標ではない。 この有限の人生を、頑張って過ごそうと力を抜いてのんびり過ごそうと、それは個人の自由であるはずだ。小学校という場ならば、むしろ人生にはいろんな過ごし方がある、ということを教えてやるべきところではないか。

 だが、わたしが暗くなるのは、浮き世離れした教師が思いつく安易な努力至上主義などのせいではない。わたしは、何より「ぼくらの未来へ全力投球」という言語センスにしびれてしまうのだ。よく考えてみよう。要するにこのスローガンは、未来へ向けておそらくは野球のボールを全力で投げ込む姿を何らかのたとえにしている。だが、マウンドからボールを全力で投げる姿自体は、決して前向きな姿勢を連想させはしない。むしろ、物を投げつけるという行為は、バッターやら機動隊やらという、何か敵対するものに向けたアクションではないか? 自分の希望の行く先に向けてボール投げつけちゃって、どうするんだ?とわたしは心配になる。
 
 強いて言うならば、思い切り何かをしている、という状況だけが「頑張り」を匂わせはする。しかし全力を出すという行為ならばたとえば固いウンコするときだって全身に力を込めるわけだし、力を込めれば良いってものじゃないだろう。肩に力が入ったイチローが力みながらヒットを増産するか? 「ぼくらの未来へ全力投球」と何度も繰り返してみると、徐々にその空虚な雰囲気がわたしの脳味噌を浸食し始めるのに気づき慌てる。コピーとしては最悪の部類、わたしがクライアントだったら、黙って原稿用紙を突き返しているところだ。

 小学校の方針として「とにかくガンバレ」と意識して洗脳しようというのならば、それはそれで結構。しかしそれならば、こんな空虚なスローガンを使うべきではあるまい。どう考えても「どうでもいい」とか「まあ、景気のいいのを掲げとこう」レベルのやる気のなさがそこに感じられてならないのだ。そもそも元々生徒が書いたのかセンセイが書いたのかは知らないが、あの小学校に集うセンセイ方の中に意味なしスローガンを大書して校舎に掲げてしまうセンスの持ち主がいて、その他のセンセイ方は意味なしスローガンに気づきもしない感性の持ち主なのだとしたら、この小学校で育つ子供たちがあまりにも可哀想だ。

 と言いながら、わたしはなんだか怖い物見たさで横須賀線に乗って上京するたび、この珍妙なスローガンを目で探すようになってしまった。脳味噌のシワにまるで歯垢のようにへばりつくという意味では、スローガンがスローガンの役割を果たしているわけで、案外才能あるかもね、と思ったりするから怖い。少なくともわたしは、「ぼくらの未来に」を見ると「ああ、東京に着いた」と身支度を始めるお行儀がしつけられてしまったではないか。