2月13日号 『怪獣小僧、塀を越える』
子供の頃、怪獣マニアだった。最初に映画館で観たのはキングコング対ゴジラで、それ以降のものは東宝ものを中心にほとんど(と言ってもその後一編の映画に怪獣がウヨウヨ出てくるようになって熱が冷めた)観た。ガメラ対バルゴンやら宇宙怪獣ギララやら大巨獣ガッパやらもチェックしたが、やはり東宝もの円谷英二ものが王道だった。
友人も怪獣好きが多く、(と言っても当時のよい子のほとんどは怪獣好きだったはずなのだが)怪獣の鳴き声だけ収録したソノシートを我が家のステレオで鑑賞したり、(最初から最後までアンギャー、アンギャーで終わってしまうすさまじいレコードなのだが、当時のわたしたちはそれが楽しかったし声の違いを聞き分けられたりもしたのだ)わたしの勉強部屋にボール紙で作った家やらビルを何十と作って並べひとつの街のセットを作ったり、怪獣のぬいぐるみを作ったり、それらで8ミリ映画を作ったりして遊んだものだ。
その遊びが高じて、「東宝の撮影所に見学に行こう」という話が持ち上がった。しかし正式の窓口もおそらくはあったはずなのだが、子供同士そこにコンタクトを取って正門から攻めるという頭が回らず、計画は砧の東宝撮影所の塀を乗り越えて強引に撮影所内へ侵入するという子供らしい直球勝負の冒険へと猪突猛進することになった。
確か、小学校6年の夏休みに計画は実行に移された。当時我々悪ガキどもは小田急線の百合ヶ丘近辺に住んでおり、東宝の撮影所や円谷プロのある砧は、隣町ではなかったにせよご近所ではあったのだ。我々一行3名は、成城学園から徒歩で東宝撮影所へ向かい、計画通り塀を乗り越えた。
実はわたしはその後、東宝撮影所近くに仕事場を構え数年前までそこにいたのだが、わたしたちが30年以上前に乗り越えた塀がどこにあったのか、特定することは出来なかった。そもそも当時、どうやって乗り越えるべき塀を我々が見いだしたのか、いやそもそも成城学園の駅からどうやって東宝撮影所への道を歩むことができたのか、何か案内図のようなメモのようなものを持っていた憶えもあるにはあるが、それが何だったか果たしてどこで入手したものだったか、記憶にない。これはいまだに残る謎だ。だがとにかく我々は、雑木林から回り込むようにして塀へたどりつき、塀を乗り越えたのだった。
幸運なことに塀の向こうは資材置き場で、今から思えばおそらくは1968年公開の「山本五十六」撮影で用いた軍艦の模型が露天に並べられていた。模型といっても全長3mから5mあるもので、正確には怪獣好きというよりも特撮好きで特にミニチュアワークに興味を持っていたわたしは感涙にむせんだものだ。わたしたちはそこから怪獣映画の撮影現場を探して構内を歩き、いくつかスタジオをのぞき込んだ。しかし、期待していた怪獣にも街のセットにも出会うことはできなかった。
こんな状態で小学生が3人、撮影所内をキョロキョロウロウロしていれば目立って当然だ。わたしたちはほどなく守衛に見つかり取り押さえられた。守衛は我々の目的を聴取し、塀を乗り越えて中に侵入することはとても悪いことだと説教をくれた。我々は悪ガキとは言えど、比較的優等生に入る従順な子供で、あまり大人に叱られることもなく過ごしてきたので、知らない大人から受ける説教はかなり重かった記憶がある。
説教を一通り終えた守衛は我々に「もう塀は乗り越えてはダメだから、即刻正門から退出しろ」と我々に命令した。と言われても塀からいきなり侵入した我々には果たして門がどこにあるのかわからない。「門はどこか」と聞くと守衛は「あそこをあっちに曲がってまっすぐ行って、こっちへ曲がってあっちへ行ってこっちへ行け」と道を教えてくれた。我々はその指示通り、スゴスゴと退却を始めた。
ところが、守衛が我々に教えた道は実に入り組んでおり、門になかなかたどりつけなかった。ようやく門を見つけて世田谷通り近くの表に出たとき、我々はあの守衛が実は撮影所内の見学コースをそれとなく教えてくれていたのではないか、と気づいた。なにしろ我々は退却の間、様々なスタジオやら施設の間を歩き、珍しいモノを存分に眺めることができたのである。
小学生ながら「あの守衛、イキなヤツだったな」と褒め称えながら我々は転進し、今度は東宝撮影所の正門から裏手にある円谷プロを目指し、今度は塀を乗り越えず道から撮影機材の倉庫のような場所を覗きこんだりと、「見学ツァー」を続行した。ちょうどマイティジャック第一期分の撮影が行われていた頃で、巨大なピブリダーの模型に、わたしはひっくりかえって驚き、いつかここで働きたいなどと思ったりしたものだった。