3月6日号 『魚が好きか、魚が嫌いか』
ここ数年、味覚が変わってきたのを感じる。元々、いわゆるグルメではない。繊細な味の違いなど感じ取れないどころかむしろ鈍感な方だし、ウナギならどこそこのナントカ屋、天ぷらはどこそこのナントカ屋などといった有名店に関する知識もなければこだわりもない。だけど、自分がおいしいと思うものを飲んだり食べたりして歩くのは大好きだ。

若い頃は、魚介類が大好きで、飲みに行けば必ず真っ先に刺身を注文した。特に生牡蠣は大好物、いつぞやは真夏のオーストラリアの砂漠の真ん中のホテルにあるレストランで生牡蠣を見つけ、「旅行中なんだからやめておけ」という同行者の助言も無視して生牡蠣を食べた。無事だった。今のところこれが生涯で最も海から離れた場所で口に入れた生牡蠣である。

ところが、今から思えば30歳を過ぎた頃から刺身、特に魚の刺身が味覚に重く感じるようになってきた。確か取材先の沼津、いつも仲間と行く居酒屋「魚がし」で、いつもの刺身盛りを頼んだとき「あれっ? 今のオレはこの刺身を嬉しく思っていないぞ、体調でも悪いのか?」と思ったのが発端ではなかったか。ちなみに沼津駅前にあるこの店は、安いのにものすごい厚切りの豪勢な刺身盛りを出してくれる店で、系列の寿司屋「魚がし鮨」と並んで我々のお気に入りであった。仕事が終わった夜にころがりこみ、刺身をつまみに酒を飲み、焼きおにぎりをカニ汁で食べるのがコースだったのに、それ以来わたしの足は「魚がし」から遠ざかることになる。

その後、わたしの魚離れは着々と進み、今では飲みに行ってもまず刺身は注文しなくなった。貝類は相変わらず大好物ではあるが、不思議なことにあれほど好きだった生牡蠣は、よほど気分が乗ったときしか食べようという気分にならなくなった。だからといって、今でもお寿司は一通りおいしく食べるから、本当の魚嫌いになったわけでもなさそうだ。

我が家から10分あまり、逗子マリーナのそばには英国人女性猟奇殺人事件の容疑者宅に出前したとかで、証言者としてTVに繰り返し登場した寿司屋がある。ここのお寿司は容疑者が女性を誘うときに使った「マグロ寿司のおいしい店がある」とかいう決まり文句に違わず確かにかなりおいしく、わたしも目的はともかくときどきはお客様を連れて行ったりするし、わたし自身もここのお寿司が今でも大好きだ。ところが同じお店なのに刺身となるとサービスのつもりなのかものすごい厚切りで供されるので、いつも困惑する。新鮮な魚が厚切りで山ほど食べられるのだ、魚好きには素晴らしい状況なのだろう。しかし今のわたしは、もったいないけれども見ただけでおなか一杯になって箸を出せない。

お寿司は好きなのに刺身はだめ、という最近の自分の味覚の傾向をよくよく検討してみると、どうやら魚の味、敢えて言うならば魚臭さに対する閾値が低下したらしい、とわかった。以前はさっぱりしたものからこってりしたものまでおいしく感じられたのに、今はあまりこってり魚っぽいとおいしく感じられなくなったような感じがするのだ。

一方、いや、そうではなくて、若い頃は魚好きだと自認してきたけれども、本当は魚があまり好きではなかったのかいな、とかなり悲しくも根本的な疑いが心のどこかに生じたりもする。味覚が変わったというより、年齢を重ねいくらか味がわかるようになって、実は生魚はあまり得意ではないと、やっと気が付いたのではないか、今までのわたしは生魚の本当の味を知らないまま頬張っていたのではないか、この先もっと味がわかるようになればわたしは本当に魚嫌いになってしまうのではないか、と。

とかなんとか首を傾げつつ、先日箱根の宮ノ下で骨休めしたときは、わざわざ山を下りて湯本の「はげ八寿司」にカワハギの刺身を食べに行った。我が家は年に何度か宮ノ下で休暇をとるのだが、そのたびにはげ八寿司に行く。ここは女房の友人が「ここでカワハギを食え」と教えてくれた店で、それまで特にカワハギには執着がなかったわたしではあるがすっかりファンになった。

まあ、カワハギの身そのものはかなりあっさりしたものだし、キモもこってりはしているけれども魚臭さという意味ではそれほど重くはないからおいしく食べられるのかもしれない。だが、この先もっと魚臭さに対する閾値が下がったら、あるいは本当の魚の味がわかってしまったら、いつかカワハギも食べなくなる日が来るのかなあ、と考えながらカワハギの身を味わい、「これって、オレ、ほんとにおいしく感じているのかな」と自問したりしているのだからおいしさも半減しているかも知れない。困ったものだ。わたしはいったい、魚好きなのか魚嫌いなのか。