3月13日号 『ファイロファックスと12年』

 昨年、とうとう自分のスケジュール管理を電子化した。昨年まで使っていたのは、ファイロファックスのバイブルサイズのものだ。これは、ご存じの方も多いとは思うが80年代前半頃に大流行した頑丈な皮で表装されたバインダー式の手帳である。なんでもその頑丈さときたら第一次世界大戦の西部戦線だかどこかで、将校が胸に受けた弾丸を食い止めたとか。だからファイロファックスを買うというのもどうかとは思うけれども、手帳ブランドの王道であったことは確かだ。

 フリーランス稼業が軌道に乗り始めた87年、わたしも周囲の仲間にならってファイロファックスの導入を決めた。といっても日本国内では決して安いものではなかったから、夏にロンドン近郊にある姉夫婦の家に滞在していたとき、近所のショッピングモールへ出かけ、国内にはあまり数が入っていなかった大径リングのモデルを購入した。確か、友人から注文をとって、いくつかまとめ買いをしたのではなかったか。買いながらこの手帳が活用されてボロボロになるくらい繁盛すればいいなあ、と思ったことを憶えている。

 それ以来、バブル景気に後押しされてわたしの商売は順調に広がり、ファイロファックスも願い通り大活躍することになった。といっても、いわゆるファイロファックスマニアのようにリフィルをいろいろ取りそろえたり、自分で作ったりという使い方はしなかった。見開き1週間のダイアリー式予定表と年間スケジュール表、それと住所録にメモ、そしてなんでも入るファスナー付きのポケットをセットしただけだ。あとは、資料やメモを挟み込んで持ち歩いた。整理下手のわたしにとっては、とにかくこの手帳さえ手元にあれば話が済んだので非常に便利で役に立った。黒い皮表紙は徐々に傷んではきたが、それが積み重ねた仕事の証明であるような気がしてわたしには嬉しかったりもした。

 ファイロファックスの流行はじきに収まり、猫も杓子も持ち歩くという状況ではなくなり、ザウルス等小型コンピュータ、いわゆるPDAが登場するに及んで新しもの好きはそちらへ流れた。しかし、わたしは当時のPDAを使う気にはなれなかった。どう考えても使いづらく機能も不足しており、ファイロファックスの方がはるかに便利だったからだ。わたしはファイロファックスとともに日本中、世界中を仕事のために旅して歩いた。アメリカから帰ってくる飛行機の中に置き忘れたこともあったが、無事手元に帰ってきた。

 ところがファイロファックスと別れる日は突然やってきた。丸12年使ったおととしの夏、車上荒らしにあってしまったのだ。たまたまクルマのシートに置いたままにしてキーをかけずにクルマを離れたわたしが悪いので、盗まれたとわかったときにも、がっかりはしてもさほど腹は立たなかった。それにしても金目のものが一切なかったからといって、あんなものを持ち去った泥棒はあの手帳をどうしたんだか。使い込んだ手帳など、持ち主にはかなりの価値があっても、他人にはゴミみたいなものだろうに。

 ときは99年、PDAもかなり発達してきてはいたが、わたしにはファイロファックスの後継はファイロファックス以外に思い浮かばなかった。そこで新宿の三越だったかどこだったかの文房具売り場で、小径リングのファイロファックスを購入した。年末にはいつものリフィルを買って、2000年に備えたりもした。

 もっとも、ファイロファックスにも問題が生じ始めていた。わたしのスケジュールは変更があるたび女房に口頭で伝え、彼女は彼女のスケジュール帳へ書き写していたのだが、行き違いも多数発生し、なんとかならないものかと、一時期はファイロファックス以外に女房と共有するためのスケジュール帳を作ったりもしたのだが、ズボラなわたしは二種類のスケジュール帳を管理しきれない。これはもうLANを作ってコンピュータ上でデータを共有するしかあるまいと、昨年はじめデスクトップコンピュータの新機種を導入する際に女房専用のデスクトップも併せて購入し、家庭内LANを構築した。そのとき、いくつか検討した中から選んだのがロータス・オーガナイザーというスケジュール管理ソフトであった。

 使い始めるとこれが実に使いやすい。元々はデータを共有するためのツールであり、わたしはこれまで通りファイロファックスを使い続けるつもりでいたのだが、スケジュールを管理するうえでも、オーガナイザーはファイロファックスを上回る使い勝手を示したのである。わたしのスケジュール管理の主体は知らず知らずのうちにファイロファックスからオーガナイザーへと移行し始めた。そして主従は逆転し、ファイロファックスは、オーガナイザーで管理しているデータを書き写して持ち歩くためのツールになってしまったのである。

 こうなるとPDAが欲しくなる。ちょうど、パーム系PDAが出回り始めたときでわたしの周囲にもこれを導入する者が多かったが、わたしには機能はともかくパームは大きすぎた。確かにファイロファックスを持ち歩くことを思えばどっこいどっこいだが、せっかくPDAを導入するのならば、ファイロファックスでできなかった「ポケットでの携帯」を実現したかった。パームはポケットには入るかも知れないが、現実的ではない。

 そこで探してみるとシチズンがPCカードサイズのPDAを発売しており、ちょうどバージョンアップするタイミングで、しかもオーガナイザーとのシンクロも対応していることを知り、早速新バージョンを購入した。確か5月半ばのことではなかったか。こうして購入した「データスリム2」は、まさにわたしの望んだ大きさ、望んだ機能を備えていた。こうして丸12年にわたるわたしのファイロファックス時代は終わり、オーガナイザー+家庭内LAN+データスリム時代が始まる現在に至るのである。ファイロファックスをめくってみると、昨年4月12日のメモが最後だった。

 とはいえ、実は現状に完全に満足しているわけではない。今はまったく持ち歩かなくなったファイロファックスではあるけれど、ひとつだけデータスリムにはない機能を持っていたのである。それが、整理前の資料やら名刺やらをなんでもかんでもとりあえず挟み込んで携帯できるという機能である。この非常に大雑把であいまいな働きは、ファイロファックスならではだ。もちろんデータスリムのケースをもう少しだけ大きくして、この種の機能を持たせれば話は済むのかも知れないが、今のところそういうオプションは登場していない。