8月27日号 『定食屋の窓、キツネのお告げ』
いわゆる心霊関連の話は、ネタとして興味はあっても信用はしない。確かに神社のお守りに頼ったり占いを気にしたりはするけれども、それとこれとは話が違う。とは言うけれど、実はわたしの周囲には真顔で「幽霊を見たことがある」あるいは「よく見る」と語る人物が何人もいる。たとえば10年以上も前、あるカメラマンとフランス取材へ出かけ、都合で予約もないままパリで一泊することになって、飛び込みで見つけた古ぼけたホテルへチェックインしたときのこと。部屋がなくてツインルームに二人で泊まったのだが、カメラマンがふとこんなことを言う。「今、見た?」
何のことかわからないまま「え?」と聞き返すと、「そこにいたよ、女の霊が」と平気な顔で断言する。気持ちがわるいので詳しくは聞かなかったが、確実にこういう人はいるのだ。
私自身、妙な気配を感じることはある。たとえば、業界内では幽霊が出ることで有名な御殿場のとあるホテルなど、泊まるたびにゾクゾクといやな気配にとらわれてよく眠れない。おそらくは特殊な設計のせいなんだろうと思うが、落ち着かないし疲れが取れないので、最近はまったく使わなくなってしまった。
だからといって、霊魂がどこかに存在するなどと思っているわけではない。宇宙人はどこかにいるかもしれないけれども霊魂はない。まじめな人がまじめに語る心霊話は、何らかの形で科学的に説明がつくはずだと信じている。
だが、キツネ憑きだけは別だ。キツネ憑きは実在する。なにしろわたしはキツネに憑かれた女性をこの目で目撃したことがあるのだ。きっと科学的な説明はできるんだろうと思う。思うが、今のところわたしの中では納得行く説明ができないままだ。
わたしは以前、出身した大学のそばに住んでいた。大学のそばには学生時代に通った定食屋があり、定食屋の前の道はわたしの通勤路であった。その定食屋では名物お姉さんというかおばちゃんがウェイトレスをしていて、何か注文すると独特のイントネーションで厨房に向け注文を伝えたものだった。わたしたちは安く空腹を充たすのが目的の半分、この彼女の節回しを聞くのが目的の残り半分で、この店に通った。
大学卒業後も近所に住んでいたこともあって、ときどき学生に混じってその店で食事をした。するとそのお姉ちゃんというかおばちゃんは、ワタシの顔を見て「あれっ、まだこの辺にいらっしゃるんですか、懐かしい」とコーラをおごってくれたりした。今から思えば妙な話なのだが、そういえばそんなことが数回あった。確かに間を空けてでかけたときだったから、何かの勘違いだろう、とワタシはありがたくコーラを飲んだ。
ある夜中、仕事を終えてその定食屋の前を 通り帰宅しようとしたときのこと。定食屋の前にパトカーが回転灯をつけたまま止まって、何やら騒々しい。何があったのか、と思いながら近づいていくと、警官が数名と定食屋のオヤジが、前の道から店の2階を見上げている。で、こちらも見上げてみると、2階の窓には例のお姉ちゃんというかおばちゃんがただならぬ形相で顔を出しており、何か叫んでいる。
彼女が叫んだ内容をそのまま再現することはできないが、要するに「ワタシはカクカクシカジカの由緒を持つドコソコ地方のナントカ大権現のホニャララの使いであるぞよ、いますぐアレソレを供物として備えなければ、この家と近所中に災いをもたらすぞよ」という内容の、いかにも芝居がかった呪文とも口上ともつかぬお告げなのだ。そのお告げたるや、始まって終わるまでに何分かかかるほど長く、しかもきわめて具体的なディテールで構成されていた。キツネ憑きをつかまえて「実感がある」というのもどうかとは思うが、彼女は本当にキツネになりきっており、きわめてリアルな有様ではあった。
ものすごい勢いで「ワタシは神の使いのキツネである」と叫びまくるものだから、誰も彼女には近づけず、ただただ見守るばかり。純真無垢な人間だったら、彼女には本当にキツネが憑いたんだ、とひれ伏すところだったろうが、元来疑り深いわたしは、「変わった人がいるもんだなあ」と妙な感銘を受けて野次馬として事態を見守った。それにしてもあれだけ長く具体的で詳細なお告げを滑らかに叫ぶためには、よほどの勉強や訓練を積まなければいけないはずだ。そもそも学ぶべき資料や台本がどこかに存在するのか? それとも彼女は特殊な信仰のあまり、それ関係の資料を探しまくり読みまくり、台本を自分で作り上げたか? だとするならば、かなりの想像力でありかなりの調査力でありかなりの筆力だぞ。
彼女が何らかの原因で正気を失っていたのは間違いない。そのとき、なぜキツネが出たかと考えると不思議だ。彼女は自分が正気を失うときのためにあれだけものすごい台本を作りそれを記憶し語り口まで練り上げて準備していたのか? そんな馬鹿な。では正気を失いながらも普段の信仰の中で積み上げた知識を構成しアドリブでキツネを演じたか? それも、そんな馬鹿な、だ。正直なところ、どっちかと言えば、本当にキツネが憑いたんだ、と言い切ってしまう方がはるかに自然だし説得力があるよなあと、わたしは首を傾げつつしばらく事態を見守っていたが、真夜中のこと、さすがに飽きてとりあえず家に戻った。家の窓からは、まだ彼女のお告げが聞こえたりした。何か大きな動きがあったら駆けつけようと思っているうち眠りこけてしまった。
翌朝、定食屋の前に行ってみると、1階と2階の窓ガラスが割れており、テープで補修がしてあった。そして、都合によりしばらく休業する旨、貼り紙がしてあった。それを最後に、かの定食屋が店を開くことはなかった。後に大学時代の友人と定食屋の話になったとき、かなり多くの人間が卒業後、定食屋に顔を出し、あのお姉ちゃんというかおばちゃんにコーラをおごってもらい、首をひねっていたということが判明した。