10月1日号 『休みどきかな』

 今、韓国ではアジア大会が開催されているそうなのだが、この種のイベントに興味がないわたしは、どんな種目にどんな選手がいてどんな戦いぶりを見せているのか、まったく知らない。アジア大会に限らない。オリンピックも同様。夜中のTV中継を見て寝不足だ、とこぼす友人知人の気持ちが理解できない。今年の夏大騒動になったサッカーのワールドカップも、そういえば開催中は確か日本チームがどんな状況なのかくらいは勝手に耳に入って知っていたが、今となっては「そういえば果たしてどこまで勝ち進んだのか」を失念してしまっているし、肝心の優勝チームも「はて、どこの国のチームだったか」と思い出せない始末だ。

 思えば、子供の時から他人のやるスポーツにはあまり興味を持たないままここまで来た。中学生時代にプロ野球、というよりも巨人軍の王貞治選手に何かのきっかけで傾倒し、あるシーズンなど毎戦王選手の打席だけを録音し、ホームランを打たなかった打席は消去してホームラン打席だけを延々50数回も積み重ねた、けったいなテープを作ったことがある。だが、すぐに飽きた。今のわたしはプロ野球セパ両リーグの球団名を問われても、正式名称は2、3チームしか答えられまい。

 といって、スポーツそのものが嫌いだというわけではない。子供の頃から運動神経は優れていると言われてきたし自分でもサッカー部に入ったり器械体操部に入ったり、運動は続けてきた。さすがに今では、仕事に追いかけられて破滅的な運動不足に陥りブクブクと贅肉がつく一方だが、たまにジムへ行くと、昔の情熱がよみがえり、よせばいいのに止まらなくなって貧血を起こして倒れるまでトレッドミルで駆け回ったりする。外国のリゾートホテルのジムでほとんど意識を失いかけ、インストラクターたちを慌てさせたこともある。得体の知れない東洋人が来たと思ったら、いきなり頑張り始め、黙々と自分をいじめ続けてそのまま青い顔して横たわっちゃったのだからびっくりもしただろう。

 だが、相変わらず他人がするスポーツを、熱狂して眺める感性はわたしにはない。さすがに自分の仕事の対象であるところのモーターレーシングには比較的熱中するけれども、こちらは逆に仕事の対象であって、冷静に眺める目を維持しなければいけないわけで、難しいところだ。別にオリンピックやサッカーワールドカップやアジア大会や野球やらを、今さら熱中してみようとは思わない。ただ、仕事の対象であるモーターレーシングを眺める目がこのところ少々冷えすぎているのは自分で気になる。もう少し、熱い気持ちを持っていた方が良い仕事ができるはずなのに、というもどかしさすら感じる。

 おそらくは年齢のせいなのだろう。年齢を重ねるということは、刺激に対する閾値を引き上げていく作業であると看破したのは庄司薫だったか。まさに年齢とともにわたしは物事に感動しなくなってきた。さらに仕事が多忙であるのも、自分の感性には悪影響を及ぼしているようだ。感動をするひまもなく、わずかな感動をおぼえたところでそれを咀嚼し発酵させる時間がないまま、原稿に書き起こすことを繰り返しているうちに、そういう敢えて言うならば促成栽培のような仕事のリズムが身に染み込んでしまった。だからといって立ち止まってじっくり脳味噌を動かす時間はとれない。雑誌原稿ライターの陥りやすいジレンマである。

 ここ数年、なんとか自分の感性にカツを入れるために、モーターレーシングを違う角度から眺めようと心がけてはいるが、これまでついた慣性に抗うことはできず、中途半端な勢いに乗って進み続けているのが現状だ。8年ほど前にレーシングカートのレースを始めたのも、自分に与えてみた刺激の一環であったし、一昨年、昨年と四輪レースに選手として集中的に参加したのも、ひとつの可能性を切り開く試みだった。しかし、それなりに効果があったとは思うが、決定的な打開策にはならなかった。

 仕方がないから今のまま行こうと腹をくくるならともかく、もし何かこの先自分で納得のいく仕事をしようと思うのならば、まず必要なのはおそらくそろそろ思い切った休養をとることなのかもしれないなあと思う。退職金はもちろん何の保証もない一匹狼(最近は一匹ブタ)で働くフリーランス、唯一の利点が「休みたいときに休みたいだけ休める(ただし、その間もその後も保証はない。要するに、限りなく無職に近い仕事であるだけだ)点だというのに、いざ休もうかと思い立ったところで、たとえ未来の仕事のためとはいえ、休むことには漠然とした不安、実態のない恐怖をおぼえて踏み切れない。さてどうしたものか。自分で選んだフリーランスという立場が、ひとつの節目を迎えているのは確実なのだが。