10月30日号 『貧すれば鈍する』

フリーランスとして原稿を書いて暮らす生活を始めたとき、わたしは自宅のリビングの一角を仕切って自分の仕事場にした。だがデスクトップのコンピュータを置き、FAXを置き、資料本を置いて仕事をするうちほどなく手狭になった。それ以前に、夜昼なく仕事をし始めたわたしの生活と、当時結婚していた相手の生活がすれ違い、相手が疲れ始めたのを感じていた。そこで、仕事場を外に設けることにした。今から15年ほど前の話だ。

だが、フリーランスの生活がようやく軌道に乗り始めた頃のこと、本来の家賃以外に金を払って事務所を構え、果たして生活が成り立つのかどうか勇気がなかなか出なかった。そこでなんとか確保した仕事場用の家賃予算は3万円。15年前とはいえ,かなりの緊縮予算である。

わたしは近くの不動産屋に相談し、できるだけ安いアパートを探して貰うことにした。当時わたしは東京都下府中市にある出身大学の近くに住んでおり、近所に学生向けの安アパートがそれなりに存在していることを知っていた。案の定、不動産屋はすぐにいくつかの候補をあげ、わたしはそれを眺めに行った。我が家のはす向かいの路地を入ったアパートは、まさに絵に描いたような建物で、真っ暗な廊下の両側に部屋が並び、トイレは共同、アパートというよりは「巣」といった趣で、確か2万円だとか1万7千円だとか言われたのではなかったか。とても魅力的なお値段ではあったが、さすがに却下とあいなった。

2軒目に行ったのが、我が家から歩いて5分強、街道沿いのお寿司屋の2階、というロケーションだった。実はこのお寿司屋は、みてくれは悪いけれども味が良いと評判の店で、以前からその存在は知っていた。しかしその2階がアパートになっていて、大家は他ならぬお寿司屋だとは知らなかった。

アパートの間取りは6畳と4畳半の長屋形式、和式トイレつきと、当時標準的な和風アパートであった。お寿司屋の脇の階段をカンカンと上がるとドアがあり、その奥にもう一部屋あるという構造だったが、どちらも空室の様子。街道の交通量が比較的多いのが難点ではあったが、階下のお寿司屋は夜の9時には店を閉めてよそにある自宅に帰ってしまうので気兼ねはいらないし、何よりおいしいお寿司屋が至近距離、というか真下にあるという環境が気に入った。家賃は確か2万5千円、月々、下のお寿司屋をたずねて直接支払うというシステムも、なんだか嬉しかった。わたしはそこに決めた。

ただ建物はかなりくたびれており、ドアを開けてすぐに4畳半の床は明らかに水平ではなく、しかも歩くと畳が沈み込むという、かなり不安な物件ではあった。わたしはそこに、自分のクルマを使っておそるおそる少しずつ仕事の道具を運び込んだ。わたしの仕事は、膨大な資料が必要で、それらの重さに仕事場の床というかお寿司屋の天井が耐えきれるものかどうか、かなり心配だったが、上から落ちてくるより下に落ちた方がいいな、しかも下はおいしいお寿司屋だし、などとなんだかよくわからない覚悟を決め、できるだけ重量が分散するように資料やら家具やらを配置した。

日曜大工センターで安い窓用エアコンを購入して窓に設置するときも、果たしてくたびれた窓枠がエアコンの重量で壊れないかどうか心配だった。ところが設置の過程でちょっとした作業ミスから前頭部を負傷、部屋を血だらけにするというアクシデントを起こし、わたしは当初の心配をすっかり忘れてしまった。それにしても話は違うが人間の頭は、ほんとうにすさまじい出血をするものだ。

すべての用意が整うと、たとえそれがお寿司屋の2階、家賃2万5千円で床が傾いたアパートであったとしても自分の城、フリーランス生活で記念すべき「初の個人事務所」である。自宅から移設した電話は番号が変わらなかったから、特に仕事場を設けたことをあちこちにアナウンスする必要もなかったが、自分のデスクに座るとなんとなく、事務所開設の挨拶を知り合いにしたくなった。それで何本か電話をしてみたりしちゃったりなんかしちゃった。




すると、当時つきあいのあったひとりの男が早速様子を見に行く、と言い出した。彼はバブル景気の勢いに乗って自分の仕事を広げることに成功した知人で、当時は確か六本木に事務所を構えており、金のないわたしをしょっちゅう六本木のバーへ連れ出して飲ませてくれたばかりか、様々な仕事を回してくれたり人を紹介してくれたりした恩人のひとりである。おいおい、六本木から府中のお寿司屋の2階に来るかよ、と気が重くなったが断るわけにも行かない。

そしてある日やってきた彼を最初に部屋へ導き入れたときのことを今でも鮮明に思い出す。彼は、状況に一瞬仰天し、こう口を開いたのだ。「なあ、大串ちゃん、これは、貧すれば鈍する、ってやつだぞ」と。

確かにそれを言わせるだけ、すごみのある部屋ではあった。彼には他に語る言葉はなかっただろう。ただ、それを聞いたわたしの気持ちは複雑だった。複雑だったからいまだに覚えていたりするのだろう。「いや〜、その通りかもしれないなあ」と思ったのが半分、「貧には違いないが、鈍しなきゃいいんだろ」と思ったのが半分、考えてみれば彼は実に良いタイミングで実に素晴らしい警句をくれたのかもしれない。

お寿司屋の2階の事務所には10か月ほどいただろうか。わたしの仕事はその間に予想以上の規模で広がり、運び込まなければならない器材も増えて早くも物理的な問題が生じ始めた。わたしはお寿司屋の2階で、もっとチマチマとのんびり仕事を続けていくつもりだったのだが、状況の方が先に進んでわたしを押し流し始めた。

結局わたしは、もう少し頑丈な造りのワンルームマンションを探し、ちょうどお寿司屋と自宅の間に手頃な物件を見つけて事務所を引っ越すことに決めた。家賃は5万円。これをきっかけに、その後のわたしは仕事の状況に合わせて事務所を拡大し、転々と引っ越しを繰り返すことになる。この間、貧していたかどうかはともかく、鈍することなくここまで来たはずだよなあ、と自分では思ってはいる。ただ、ひとつ最初の仕事場に思い残したことがある。せっかく階下のお寿司屋を社員食堂と勝手に呼んで楽しみにしていたのに、あまりの忙しさの中、結局お寿司はたったの1回しか食べられなかったのである。