12月13日号 『温泉オヤジ体操』

四十肩がひどくなって、整形外科に通っている。そりゃオマエ五十肩だろうという説もあるにはあるが、医者は「四十肩」と診断した。どうやら医学の世界では一の位は切り捨てのようだ。それはともかく、一時期は痛みで睡眠が浅くなるほど悪化したが、医者による治療と薬が効いて今は四十肩であることを忘れるほどまで回復した。だが、依然として腕の運動範囲は狭く、限界近辺では痛みが走る。現在は薬は飲まず、病院で妙齢の女性理学療法士によるリハビリを受ける一方、医者の指示に従って1日に数回、肩を暖めてから腕をグルグル回す体操をしている。

温泉にでもでかけてゆっくり療養したいところだが、貧乏ヒマなし、なかなか時間がとれない。幸か不幸か、このところ頻繁に仕事ででかける鈴鹿サーキットには天然温泉の公衆浴場があるので、仕事ついでに利用している。温泉に浸かると肩がよく暖まって、体操も非常に効果的だ(と思う)。もっとも、他にお客さんもいることだし、迷惑がかからないように体操するときは湯船のすみっこに行く。昔から、温泉で得体の知れない体操をしているオヤジを見ては「なんだか見苦しいなあ」と思ってきたもので、それなりに気を遣うわけだ。しかし、とうとう自分が温泉で体操をするオヤジになってしまったのか、と少々慌てたりもする。

それにしても他人事のような言い方をするけれど、温泉で見かける体操オヤジと言うかオヤジ体操は不思議だ。オヤジ体操の特徴は、見たこともない動きで構成されている点だ。オヤジ体操の多くは、(おそらく)勝手な思いこみで編み出された自己流体操だと思われる。医者やトレーナーに指示された正しい原型があったとしても、徐々に勝手な改良が加わり、もはや原型を偲ぶことができないほどに変形している。

なぜその変形が行われたのかに思いをめぐらす。まず、大抵の場合が「楽な方向」へ変形している。たとえば四十肩のリハビリは、そのたびに悲鳴が出かかるほどに痛い。当然、自分で行う体操もある程度痛くなければ意味がない。だが人間というもの、無意識のうちに痛さから逃げ出すようにできていて、ハッと気づくと動きが小さく無難な範囲の中に収まっている。これを繰り返すと徐々に、動きは小さく楽な方向へ変形し始める。わたしはそれに気づけば動きを修正するし、痛さから逃げないよう自分に言い聞かせ、かろうじてオヤジ体操化を防止しているけれども、温泉オヤジは自らの状況を顧みることも忘れて、どんどん痛さや苦しさから逃げていき、それで効果あるのか?と心配になるほどマイルドなものに落ち着いてしまうようだ。

一方、顕著に見られるのが「思いこみ効果」を盛り込む傾向だ。オヤジはなぜか自分に自信があって、他人の言うことを聞かない。体操にしても同じことで、勝手に「こうやったら効果があるだろう」と体操の動作を変更したり新しい動きを付け加えたりする。思いこんだらオヤジは強い。もう筋肉や骨格の構成など飛び越えて、ほとんどおまじないの世界にまで踏み込んじゃったりしているように見受けられるものも珍しくはない。結果的に、肉体的には楽だが効果は多大に期待するという、かなり我が儘なコンセプトに基づき改良を重ねたオヤジ体操は、まるで前衛舞踏のように奇怪なしろものへ進化する、というか退化する。

でも、この種のオヤジ体操を横目でそれとなく観察していると(だって大抵の場合、体操オヤジは全裸なんだ)なんとも微笑ましい気分になるのも事実だ。なぜならばその面妖な動きのひとつひとつに込められた「痛いのはイヤだな」とか「こうすればここに効くはずだ」とか「効果があったらうれしいな」というオヤジの思いが感じ取れるからだ。ああ、あの(見たこともない)動作は、きっとコレコレこういう部分にこういう効果が出ることを期待して作り上げたものなのだな、と考えると、なんだか幼児がお手手つないで一所懸命お遊戯しているのを眺めるときのような優しい気持ちになれる。オヤジ体操恐るべし。見る者に癒し効果までを及ぼすのだ。

それを思えば、オヤジはオヤジでもワタシの体操など機能優先で色気のないこと夥しい。いや、考えようによっては、自分の利益ばかりを追究したエゴイズムに満ち、他者への優しさに欠けた所行なのかもしれない。さすがに四十肩はきちんと直さないと日々の生活にも支障が出るから、しばらくは機能優先で行きたいとは思うが、一段落ついたら「老眼を直す体操」に着手し、ゆくゆくは「老化を防ぐ体操」だとか「原稿がうまくなる体操」とか「お金が儲かる体操」とか「幸福になれる体操」とか「娘にもてるようになる体操」みたいなのを編み出して、温泉に浸かってはすみっこで披露し、正統温泉オヤジ体操を通して周囲の人々を癒してやるつもりだ。