12月22日号 『行列が大嫌い』

行列が嫌いだ。もちろん、行列をしなければならない公共交通機関を利用するときやらディズニーランドでお目当てのアトラクションを楽しむためには内心はともかくおとなしく行列を作る。スキあらば横入りしようとするオバハンをつかまえて説教くれちゃったりすることまである。だが、少なくとも「評判の店」やら「行列のできる店」などといった飲食店で飲食するために行列をしようとは思わない。

そもそも、わたしはその種の店には近づかない。いくらそれまで気に入った店であったとしてもあるいは、試してみたいと願っていた店であったとしても、雑誌やらTVに登場して評判になった段階で、その店はわたしの中で「好ましからざる店」になる。

大体、行列をして食べる価値があるほど美味しい食品など、この世の中には存在しないと信じている。飲食物の美味い不味いは断じて絶対的な評価の基準によって判定できるものではなく、あくまでそれを摂取する人間の口に合うか合わないかの差でしかない。それぞれの人間の中に味覚に対する優劣の順位が生じることはあっても、それがそのまま他の人間にあてはまるはずもない。これは市販乗用車の評価と同じことだ。だからしたり顔で「その年を代表するクルマ」などを決めたりするためにウヨウヨ集まるナントカ実行委員会の面々のメンタリティが、わたしには理解できなかったりする。それはともかく。

わたしには、美味いと評判になった飲食店だからといってそれをそのまま受け入れ行列に並ぶという行為が、自分に対する自信の放棄を宣言しているように見えてならないのだ。だから、それを避けようと思う。確かに、すでにその味を知っていて高く評価したうえで行列に値すると並んでいる方がいらっしゃるかもしれない。あるいは「本当かどうか自分の舌で評価してやろう」と考えて並んでいる方がいらっしゃるかもしれない。その決断はわたしも尊重する。だが、行列に並ぶ時間を浪費して余りあるほど美味いものがこの世の中にあるとは思えないし、行列の中で浪費する時間に見合うだけの結論が得られるとは思えない。

もちろん、ラーメンとカレーのどちらが美味いかを決めるに等しいナントカ実行委員会の所業とは違って、美味しいと言われたものを味わってみようと行列に並ぶ人々の感性は尊重する。尊重はするけれども、それに賛同しようとは思わない。ただし、わたしが理解できないと言うのは、あくまでも情報の受け手としての損得勘定の話である。ラーメンとカレーのどちらが美味いかを真剣に決めようとする輩は食の本質を見誤った大バカ者だが、どちらが美味しいかと胸ときめかす者は愛すべき食いしん坊だ。

というわけで、わたしは、わたしの口に合う料理を出すが行列が出来る店と、わたしの口には合わないが行列のない店のどちらを選ぶかと言われれば(もちろん口に合わないにも程度はあるが)迷うことなく後者を選ぶ。ふと飛び込んだ店の中に列ができていることがままあるが、そのときはその店の店構えがどんなに好ましかったとしても、どんなに食欲をそそる香りを漂わせていたとしても、即座にUターンして店を出ることにしている。それで後悔したことなどはない。