『サンダーボルトF1の車体番号に関する徹底考察』
解説:
97年秋、模型専門誌の「モデルグラフィックス」のために執筆したもの。村上もとか氏作の名作F1マンガ、「赤いペガサス」の物語の中で、主人公のケン・アカバが乗る国産F1マシン、サンダーボルトSV01が97年秋に模型化されたのを機に発注された。この執筆のため、わたしは「赤いペガサス」全巻を綿密に読み直し、物語の表裏にあるはずの事情を考察、現実のF1グランプリとすりあわせながら、矛盾が生じないように車体番号を推定、物語では語られていない部分の「赤ペガ世界」を構築した。ところがモデルグラフィックスの編集者は第1稿からあっけなく物語との矛盾を見つけだし、修正を依頼してきた。恐るべきヲタク魂であった。なお、今後も矛盾や異なる解釈を見つけだした方は、ぜひ御一報を。
本文:
日本籍のコンストラクターが製作したシャシーとして1977年シーズンを席巻したサンダーボルトSV01改は、日本のF1ファンにとって記憶すべきマシンである。77年、F1グランプリ参戦を果たしたサンダーボルト・エンジニアリング(SVE)は、本来SV01でシーズンを闘うつもりでいたが、SV01の完成が遅れたため、プロトタイプであるSV009で序盤戦を戦い実戦を通してデータ収集を行って、SV01を78年度にも通用するマシンへと進化させる戦略をとった。
ところがSV009は前評判に反して、本場のF1グランプリでは全く歯がたたず、SVEは急遽図面の段階だったSV01を組み立てる決断を下した。こうして、シリーズ第3戦、南アフリカGPが行われるキャラミ・サーキットへ2台のSV01が運び込まれることとなった。なんとこの間、40日。驚異的な突貫工事である。
SV01はこのレースから第5戦スペインまで用いられた。この間、第4戦ロングビーチでケン・アカバが02で優勝を遂げる一方、01に乗ったロック・ベアードが事故死するという悲劇が起きた。SVEは、スペインGPが終わった時点で戦闘体制を一旦見直し、シリーズ中盤戦へ立ち向かう決意をかためた。ここで投入されたのがSV01改である。
SV01改は、SV01のモノコックをそのまま流用し、前後サスペンションとカウリングを作り替えた車体だ。SV01の手本は、軽量コンパクトなウイリアムズFW06だったが、すでに時代はいわゆるウイングカーが主導権を握るようになっており、SV01はニューマシンでありながらすでに時代遅れとなりつつあったのだ。そこで、SVEはトム・カサハラをチーフ・デザイナーに起用し、SV01のウイングカー化をはかった。しかし時間の問題でSV01のツインチューブ・バスタブ・モノコックをそのまま使わざるをえず、ウイングカー化は、サイドポッドに十分な幅のベンチュリーを確保できないというきわめて重いハンディを抱えたまま行われている。
カサハラは、ラジエター吸気口をモノコック側面から離して配置し、冷却効率を高めると同時に前方からの空気を狙い定めて狭いベンチュリーへ押し込み、グラウンドエフェクト効率をなんとか補おうと苦し紛れの工夫をしている。しかし一方でオイルクーラーの置き場所に苦慮した挙げ句に結局サイドポッド最後部に押し込んでせっかくのベンチュリーをさらに狭めてしまうなど、開発期間の短さゆえのデザインの不徹底も目立つ。オイルクーラーを通過した空気をリアタイヤ直前のスパッツ部分へ抜くという対策は為されていたが、ベンチュリー自体がきわめて小さく不完全な構造だったことを考えると、果たしてどれだけのグラウンドエフェクトが得られたかは疑問の残るところではある。SV01改は、確かにSV01を上回る戦闘力を見せたが、これは空力処理の成果というよりも重量配分の好転がもたらした結果だっただろう。
SV01改のデビュー戦は第6戦モナコGPで、新車SV01−03が運び込まれケンに与えられた。TカーはSV01−02。モノコックが同一のためシャシー番号のうえでは、SV01とSV01改の区別はなされてはいないが、02の方は「改」スペックに作り替える時間がなかったため、従来の仕様のままであった。このモナコでケンはポールトゥウインを飾る。
レース後の週明けにSVEは03をブランズハッチへ運び込み、臨時のタイヤテストを行った。これは、実はシーズン後半に参戦を予定していたブリヂストン・タイヤのためのテストであった。一方、日本では新鋭ペペ・ラセールが、新しい04でテスト走行を行っていた。つまりSV01改は、BSラジアルタイヤ仕様のマシンでもあったのだ。ブランズハッチテストを終えたケンは急遽日本へ飛び、富士スピードウェイで本格的なタイヤテストに合流。ここで使われたのは。ペペ用の04と、ケン用に新たに組まれた05である。モナコとベルギーのインターバルは2週間。このわずかな時間で、2回のテストを行ったところに、SVEがBSに賭ける意欲が見て取れる。
ベルギーGPでは、モナコで勝った03はTカーに回った。それまでTカーとして用いられていた02は、南ア、スペインと続いたクラッシュでモノコックの疲労も激しかったので日本へ送り返され、テスト走行に用いられることになったのである。レース結果はケンの05が予選10位、決勝2位。デビュー戦だったペペは04で予選5位からクラッシュ、リタイヤを喫している。
第8戦スウェーデンGPで、ついにBSが実戦に参加した。05に乗るケンはBSの威力を存分に引き出しポールトゥウイン。04のペペは予選6位からクラッシュでレースを終える。第9戦フランスGPでもケンは05で予選4位から優勝を遂げ2連勝。一方ペペは04で予選8位からスタート、エンジンブローでリタイアした。
第10戦イギリスGPでは、SV01改に小改造が施された。角度をつけてヒップマウントされていたオイルクーラーをサイドポッド側面に沿って押しだし、ベンチュリーの流路をよりスムーズに成形し直したのだ。それに伴いスパッツ形状も変更になっている。この改造は、SV01改がダウンフォース不足に悩んでいた証拠である。
イギリスでは、ペペが初めてのポールポジションにつき、ケンが予選2位と続いたため、SVEにとって初めてのフロントロー独占となった。ところが決勝では大事件が起きる。ペペとケンがトップ争いを展開した挙げ句に、ケンがアクシデントに巻き込まれてクラッシュ炎上、重傷を負うのだ。その一方でペペは無事フィニッシュ、初優勝を遂げた。この事故でケンの05は全損。ケン自身も重傷を負ったため戦列を退き、続くドイツ、オーストリア、オランダの3戦はペペが04とTカー用の03という布陣で単独参加、ドイツではリタイヤを喫したもののオーストリアでは決勝4位、オランダでは優勝を記録している。
ケンのチャンピオン争いを支援するためSVEは新しいシャシーを作って投入することを決め、ケンが休場している間にSV01−06を作ってヨーロッパへ送り込んだ。このマシンはオランダGPが行われた週末にはイギリスに届き、ブランズハッチでケンの手によってシェイクダウンが行われている。ケンがこのマシンに乗ってカムバックしたのは第11戦イタリアGP。ケンは驚異のポールポジションからスタート、決勝を2位で終えた。ペペは予選で04が炎上したため、決勝はスペアの03に乗り換えて出場したがフィニッシュ直前、ロータスのマリオ・アンドレッティと接触、マシンを大破させながら3位に入賞した。
イタリアで03が大破、Tカーがなくなったところに到着したのが、SVEが極秘裡に製作していたSV11である。これは、当初からウイングカーを意識して設計された完全なニューマシンで、SV01シリーズとは共通性はまったくない。両サイドのラジエターを低い位置に水平にマウントし、その後方へ純粋に翼断面のベンチュリーを配置するなど、独自のウイングカー解釈を含むデザインは「SVEイギリス支部が行った」と表向きの発表は為されたが、実際にはロビン・ハード率いる英国のマーチ社が自社の活動の傍ら設計製作を請け負った「英国車」であることは当初から事情通の間でささやかれた公然の秘密だった。
SV11の初期テストはペペが担当したが、アメリカGPにはSV11−01のみしか間に合わなかったため、このシャシーは王座争いをしていたケンに与えられ、ペペはSV01−06に乗って、修復されたSV01−04がTカーとされた。結果はケンが予選2位、決勝2位。ペペはポールトゥフィニッシュであった。
続くカナダGPにはペペ用のSV11−02が届いたので、SV01−06がTカーに回り、04が日本へ送り返されることになった。このレース、スタート事故でSV11−01を壊したケンは急遽SV01−06に乗り再スタートしている。しかし結局、タイヤ交換のピットイン時に火災事故を起こしてリタイア。SV11−02のペペは、決勝でクラッシュ、頭部に負傷を負って帰らぬ人となってしまった。
日本に急遽SV01−04が送り返されたのは、最終戦日本GPで、高橋国光がSVEからスポット参戦する計画がまとまったためだった。アメリカから送り返された04には、国光サイドの事情で独自にスピードスターホイールとダンロップタイヤの組み合わせが取り付けられることになったが、短期間で下手な改良をするよりは、本来の素性を活かした方が良いという国光の決断もあって、足回り等基本コンポーネントには特別な改良は施されなかった。国光はこの04に乗って予選9位につけ、決勝では5位でフィニッシュして日本人初の選手権ポイントを獲得した。そして、このレースがSV01改にとって最後の晴れ舞台となったのだった。
ケンは予選で自分のSV11−01を全損し、決勝にはカナダのクラッシュから修復されたペペ用のSV11−02で臨み、優勝を遂げてワールドチャンピオンの座を獲得した。だが彼の進撃の大部分をSV01が支えたことは、誰しも認める事実である。このように、SV01からSV01改の歴史を振り返ると、実に消耗の激しいシャシーであったことがわかる。SV01シリーズは03以降4基の「改」スペックを含めて合計6基が製造されたが、そのうち01、03、05が全損しており、現存するのは02,04、06の3台のみ。02は現在はレース活動を休止しゲームソフト業で好業績を誇る傍ら次世代低公害車開発にいそしむSVEが、06はアメリカのバートン社が現在でも保有しているが、04は国光が乗った後、国内コレクターに売却され、80年代のF1ブームとバブル経済の混乱の中で、行方不明となってしまった。今回のモデル化は06を取材することにより行われた。SV01「改」は、モナコGPから日本GPまでの12戦で用いられ、ケンによって3勝、ペペによって3勝、計6勝を遂げた。そのうちSV01−06の戦績を確認しておけば、イタリアGPでケンが乗り予選1位、決勝2位。アメリカGPでペペが乗り予選1位決勝1位、カナダGPでケンのTカーとして決勝に出走、火災でリタイヤ、となっている。壮絶だったSV01シリーズの1シーズンをまさに物語る戦歴である。