『自動車レース評論家というお仕事』                    
本文:
ヤンキースに入った伊良部選手の名言を拝借して、イナゴとジャーナリズムの関係をテーマに書き出そうと思っていたら、異教の国の元お妃さまがパリの街で暴走死を遂げて、蚊だか羽虫だかを語源とするパパラッチという単語が一気に世の中に広まってしまい、困った。まあ、イナゴにしろ蚊にしろあんまり尊敬されない立場であることには違いないし、それはそれでいいのだが、ここまで申し合わせたように虫けら扱いされると、これは神様の決めた摂理にかなった話なのか、と思えてしまうから情けない。

まあスポーツ・芸能ジャーナリズムについての批判は今に始まったわけではないのだが、自動車を使った競技である自動車レースを取材し原稿を書く身にとっては、かなりやっかいな問題だ。というのは、素材を追いかけワラワラたかる姿が虫けらのように見えるか見えないか、それならばもう少しお行儀を良くすれば、周囲から尊敬されたり信頼されたりするようになるのか、といったレベルでは話が終わらないからだ。

■返事はするけどジャーナリストじゃない

ぼくは、オマエはナニモノかと問われれば「ライター」だと答えるし、名刺にもこれまで一貫して「WRITER」と書いてきた。昨年暮れにJMS・日本モータースポーツジャーナリスト協会なる団体を脱会してからは、意地でも「ジャーナリスト」とは名乗らない。しかし、なぜかいまだにぼくのことを「モータースポーツ・ジャーナリスト」と呼びたがる人が多い。ぼくは自分のことであれ他人のことであれ、肩書きなどただのデコレーションであって人間の中身とはあまり関係のないものだと割り切っているから、「シャチョーサン」と声かけられれば振り返って「いくら?」と確認するし、それと同じくらいの気安さで「ジャーナリスト」と呼ばれれば、ハイ、と返事くらいする。

だが、自分で自分にそんなデコレーションを施す気にはなれない、という形では「ジャーナリスト」という名にこだわりはある。なぜならば、ぼくはジャーナリズムとは真実を追究し社会に対し有益な影響を及ぼす仕事であるべきだと信じているからだ。ところが、ぼくが今、モータースポーツ業界で為している仕事は、真実も追究しなければ社会に利益ももたらさない。それでは、ジャーナリズムの名の下に、ときには生命さえ賭けてきた先人たちに申し訳がたたないではないか。これまで各方面で積み重ねられてきた「ジャーナリズム」に敬意を表するためにも、ぼくは少なくとも今は自分の仕事を「ジャーナリズム」だとは呼ぶまいと思う。

といって、断じて「真実を追究もせず社会的に娯楽をもたらす以外は無益」である現在の仕事を卑下しているわけではない。モータースポーツに関わる文章を書くという現在の仕事の質が、たまたまそうであるだけであって、ぼく自身が信じている「ジャーナリズム」という仕事に対してぼくの現在の仕事は上でも下でもない。ただし、異質なものだ、ということを認識している、ということだ。

■レースを選ぶかジャーナリズムを選ぶか

なぜぼくはモータースポーツの中に真実を追究することに固執しないのか。これは現在の「モータースポーツ」と呼ばれるイベントの内情に深く関わる問題だ。ぼくは、現在のモータースポーツ界の中で真実を追究するためにただやみくもにジャーナリズムを振り回せば、モータースポーツ界の秩序を破壊しイベントそのものの存在が危うくなりかねない、と考えている。そのときジャーナリズムを選ぶかモータースポーツを選ぶかと問われれば、ぼくはモータースポーツを選ぶ。

もちろん、モータースポーツが真実を明かさないという前提の上に構築されたものであるならば、そこで真実を追究することによって新しいモータースポーツの秩序を再構築すればよい、それこそがジャーナリズムではないか、という考え方もあるにはあるが、実状を鑑みるにあまりにも現実離れしていて、ここでその理想論について語ろうとは思わない。

今、このぼくがモータースポーツを取材し原稿を書いて口に糊するために直面している問題は、真実を追究すればジャーナリズムの素材であるモータースポーツが成立しなくなり、モータースポーツを存続させ繁栄させることを優先すれば、真実を頑固に追究しない、ずなわちジャーナリズムを放棄するしか道がなくなる、というジレンマである。

たとえばレースが終わった後、レーシングドライバーやチームに敗因をたずねるとしよう。その取材で本当の敗因が語られることを期待してはいけない。というのも、彼らは多くの場合真実を語らないからだ。

負けたことが悔しくて取材に対してなどものを語る気にならない、というならばそれはそれでスポーツ選手らしい反応で、取材者としてはむしろ嬉しくもあるのだが、実際には違う。彼らは、敗北の激情などすでに乗り越え、きわめて政治的な領域に身を置き、各方面に配慮するからこそ語らないのだ。

■モータースポーツのもつ構造的問題

明らかにエンジンのパワーが出ないでライバルに遅れをとった場合でも、彼らは「エンジンのパワーが出ないから負けた」とは言わない。また、タイヤの異常摩耗が起きてペースが落ちたところで、やはり彼らは「タイヤがクソだから負けた」とは言わないのだ。何故かと言えば、エンジンもタイヤも、彼らにとっては大事な支給品だからだ。

パワーが足りなかろうと、グリップが低かろうと、基本的に彼らは次のレースでもそのエンジンを使わねばならないしタイヤを使わねばならない。たとえば上級カテゴリーで用いられるタイヤは、タイヤメーカーとの密接な関係の下で支給される場合が多い。もしタイヤメーカーとの関係を壊してしまえば、他メーカーと交渉をやり直さねばならないし、もし「移籍」に成功しても、これまでは支払わないで済んだ費用を払わねばならなくなったり、型落ちしか支給されなかったりと、不利な立場に陥ることになりかねない。エンジンも、ワークス系のエンジンならばタイヤと同様の事情があるし、市販されている場合でも、チューナーとの関係やその価格を考えればやはり他の銘柄へ容易に切り替えるわけにはいかないという問題がある。

日本のトップカテゴリーである全日本選手権フォーミュラニッポンを1シーズン、勝てる体制で闘おうとすれば1台につき約1億円の費用がかかると言われる。その1億円のうち賞金やスターティングマネーなど興行から補填されるのは、わずか2割程度、残りはすべてスポンサーからの資金や関連企業からの技術供与によって賄われる。競技者が、観客やファンあるいはその窓口としてのメディアよりも、スポンサーや関連企業の方を向くのは、当然と言えば当然なのだ。

こうして競技者たちは、レースの真実を明らかにするより、次回以降もレース活動を続行するという政治的商業的打算を優先させ、真の敗因を心の中に飲み込む。そして結局は「悪いのはボクです」の一点張りになる。「ドライバーが勝てなかったことが最大の敗因である」という言い方は、国内モータースポーツ得意の決め言葉である。こう言われれば、我々は真の敗因をよそに「ごもっとも」と頷かざるを得ない。

ここで、もし若々しくも青々しいジャーナリスト精神を発揮し、「実はアイツが負けたのは、アイツが悪かったからではない。エンジンがタコだったからだ」と真実を明かせば、政治はめぐりめぐって次のレースのエントリーリストから「アイツ」の名を消してしまうかもしれないのだ。それがジャーナリズムの成果だとしたら、あまりにも悲しい

■火のないところに煙を立てる仕事

こうした事態が、スポーツならば当然の淘汰なのか、それとも外野の余計なお世話が引き起こした環境破壊なのか、ぼくにはわからない。わからないが、ぼくは実状を無視して真実を暴き立て現在かろうじて成り立っている秩序をぶち壊す気にはどうしてもなれない。非常に、と言うより異常に金のかかる競技であるモータースポーツをまがりなりにも成立させ、ファンを楽しませるためには、こうした歪みを、少なくとも今は受け入れなければならない、と考えるからだ。そして、歪んだ構造の中に身を置く限り、真理を追究するという意味でのジャーナリズムは生存し得ないのではないか、と思う。

以前、ぼくはあるスポンサーがサーキットの現場で配布するプレスレリースを執筆する仕事を受けたことがある。本来は、プレスパスをぶらさげて広告の仕事をするのは規則違反で、あまり胸を張ってできる話でもないのだが、同時にプレスとしての仕事も十分にしていたので、自分の中で節度を守る限りはよし、とぼくはぼく自身にその仕事をすることを許していた。まあ、それはまた話は別だ。

あるレースで、そのスポンサーが走らせている某選手のマシンが走行中に後部から出火、予選のタイムアタックができないままセッションを終えてしまったことがあった。プレスレリースとしては、当然発生した事態に言及しなければならない。

ぼくはまず「出火したため走行不能に陥り、予選タイムアタックができなかった」とそのままの事実を文字にした。すると配布前にスポンサーからダメが出た。そのスポンサーは「火」に関連した商品を持っており、「火」で「火事」はまずい、と言うのだ。

といって、マシンは火と煙を盛大に噴き出しつつ、メインストレートの観客の目前を駆け抜けているのだ。「まずい」はいいが、あの火と煙はどうすれば良いのか。といって悩んでいる時間もない。しかしまるきりのウソを書くわけにもいかない。そこでぼくは困った挙げ句に「マシン後部から突然発煙した」と書いた。「なんだ、こりゃ?」と自分で首を傾げながら書いた。そうしたらスポンサーから了承が下りた。

ぼくは文字通り火のないところに煙を立ててギャラを稼いだ。そのとき、自分で自分を責める気がしなかったわけではない。しかし、そのスポンサーは日本のモータースポーツ界に多額の資金をもたらし、モータースポーツブームのひとつのきっかけを作った大スポンサーで、このぼくなどよりははるかに日本のモータースポーツに貢献した実績があっただけに、ジャーナリズムを盾にその意向を無視し真実の追究にこだわることはできなかった。(まあ、そもそもジャーナリズムに固執するなら広告仕事はやるべきではないんだろうが)

そもそもプレスレリースは、公式発表文書であると同時に取材活動を喚起する役割を持った文書であって、それを読んだ人間に「なんだか変な表現だな」と思わせるのも、ひとつのテクニックだから、真理に違う記述があったところで神様は怒らないわけで、そのときのぼくは、さほどの罪の意識は感じなかったものだ。

問題は、広告仕事から離れて本来の仕事をするときにも、こうした問題が山ほど発生する、という実状だ。モータースポーツ界の秩序を守ることを優先し競技者の都合ばかりを考慮してレースのレポートをしたところで、ファンは満足しない。といって、真実をほじくり返せば様々な箇所に軋轢が生じた挙げ句に、レースそのものが成立しなくなる可能性すらある。こうした特殊な構造の中でぼくは何ができるのか。競技者が明かしたくない事情を隠すために火だけを消して煙を立てればいいのか。虚構を作り上げれば秩序は守られるかもしれないが、それでモータースポーツの未来は保証されるのか。このジレンマには、かなり思い悩んだし、いまだに困惑することが少なくはない。

■ジャーナリズムと評論の視点の違い

結局ぼくは、考えあぐねた末にジャーナリストではなく評論家としての立場に自分を置く、という道にたどりついた。ぼくはそのとき、モータースポーツの構造が演芸に似ていることに気づいたのだ。

演芸にも現場に立ち会い取材して、何らかのレポートを社会に向けて発信する立場の人々がいる。演芸評論家と呼ばれる人々である。演芸評論家は、ぼくの言うジャーナリストではない。なぜならば、彼らは真理を追究しようとして楽屋に踏み込み手品のタネを探ってバラしたりはしないからだ。演芸評論家は、手品師が彼ら自身のフィールドである舞台の上で何を見せるかについて論じる。手品には必ずタネがあるが、評論家は真実を追究するからにはそれをすべて明らかにしなければならないとは決して考えない。

モータースポーツを語る我々も、そうあるべきではないか。手品のタネばらしを喜ぶファンもいるにはいる。そもそもタネばらしを芸にしている手品師すら存在する。しかし、演芸の魅力はタネにあるわけではない。タネを素材に展開する芸こそが演芸なのだ。ここでタネばかりに着目すれば、演芸は演芸ではなくなってしまうに違いない。手品という芸を尊敬するならば、我々は舞台の上で手品師が繰り広げる芸を解説し評価すべきではないのか。そしてそのための目を養い、知識を積むべきではないのか。そして為した評論によって演芸を支援し、できうるならば育て、ファンを増やしていくべきではないのか。

ぼくは、レースも同じことだ、と考えた。これならば、タネを見ないことが必ずしも打算ではなくなるし、タネを探ることなくレースをより前向きに眺められるようになる。こうしてぼくは、自分の仕事を真理の追究が第一義であるジャーナリズムではなく、私見を中心とした評論として位置づけ、仕事の進め方を考え直すことになったのだった。

■友だちなくとも高楊枝

しかし、これですべては解決というわけにはいかなかった。情けないのは、これだけ気を遣いつつ場合によっては当事者の立場にすら立って仕事をしながら、結果的にその立場が皮肉にもぼくの仕事を貶めてしまう傾向が強まったことだ。つまり、肝心の当事者たちから「手品にはネタがあるのに、表面しか見ないヤツ」とあらぬ批判を受けることが増えたのだ。

こっちはレース界の秩序を守るために気を遣って、当事者が明らかにしたがらないネタは見ないようにしつつ、ファンには事態が自然に見えるように状況を取り繕ってレースの魅力を伝えるという微妙な立場をようやく見つけだして仕事をしているというのに、その言い方はないんじゃないの、と正直なところぼくは思う。思うのだが、自分の位置づけを曖昧にしたまま得体の知れない仕事を続けてきたこれまでのツケを払わされているわけだな、と納得することにした。我々モータースポーツの取材者は、あまりにもミーハーに過ぎた。自らを省みることをせずに当たり障りのない情報をタレ流し続ければ、誰からも尊敬されなくなるし信用もされなくなる。まあこの辺の不満は、ツケを払い終わってから晴らせばよいことだ。

今夏あるビール会社がさかんにオンエアしていたCFがある。それはある有名スポーツジャーナリストが主役のCFなのだが、彼はメジャーリーグとおぼしき野球の試合を取材席でハンディトーキーを扱いながら観戦している。彼はかなり興奮気味で、ある打者がどうやら試合に決着をつけたらしい打球を放つと興奮して飛び上がって喜び、なんとグラウンドまで下りて肩を抱き合いながら彼を迎え、缶ビールで乾杯した挙げ句に、誰よりも先に飲み干して、満足げに「プハーッ」とかなんとかやらかすのだ。

もちろん主役のスポーツジャーナリストは演出に従っただけだ、とはわかってはいたが、ぼくはこのCFを見るたびに、主役の姿と自分を重ね合わせて「ああ、あれじゃあ誰にも尊敬されないわけだよなあ。背負ったツケは重いなあ」と気分が重くなった。あのCFは、ぼくたちの得体のしれない立場を見事に表す一方で、「ああはなるまい」と自戒させ現実逃避を促して苦いビールを山ほど飲ませたという点で、実に多大な効果を、少なくとも一部の視聴者にもたらした、とぼくは断ずる。

まあ、考えてみれば、ぼくは仕事を通して誰かに好かれようとか友だちを増やそうなどとは考えていないわけで、好きなレースが当事者たちにとってもファンにとっても繁栄することが何よりの目的である以上、コウモリ野郎と見なされてどちらの仲間にも入れてもらえなくたって、自分で納得行く仕事ができればそれで本望だもの、そもそもジャーナリストは孤高の人でなくっちゃと、こんなときばかりぼくは自分をジャーナリストだと言い聞かせつつ、サーキットに通うのである。

■足で書くのか、頭で書くのか

もちろん、我々が抱え込んでいる問題は、モータースポーツ業界の構造ばかりではない。確かに構造的な問題は一朝一夕には改善できないほど複雑で根が深いが、実は我々自身も大きな問題を抱えていて、他人のせいにばかりはしていられない。

たとえば、「レースの取材って何なのさ」という問題がある。ジャーナリストと自称する人々を含め、我々モータースポーツ報道に関わる人間の多くは、レースの前後、セッションの前後にパドックを歩き回り、知り合いの選手やエンジニア、メカニックを見つけてはダベって情報を仕入れ、それをもとに原稿を書く、という段階を追って仕事を進める。それはそれで良いと思うが、ぼくは最近こうした手法はとらない。

それは前述したように評論家としての視点を維持したいからで、もちろんパドックやピットでの取材も必要ではあるが、あくまでも情報の補足が目的であって、決して取材活動の中心には置くまいと考えているからだ。さらに、ぼくはレースの当事者たちには集中して競技をしてもらいたいと思っている。ぼくはピットロードもスターティンググリッドも、競技者のみの聖域だと考えている。そんな場所で茶飲み話に応じてもらうよりも、静かにレースに集中してもらって、コース上でよりよいレースが繰り広げられる方が嬉しい。

スタート直前のスターティンググリッドを眺めると、何をしているんだかプレスパスをぶらさげた人間がうようよとひしめいている。もちろん、スタート直前のドライバーやチームの表情を窺うため、とかなんとか理由はあるのだろうが、そこで見聞した微妙な機微が原稿に表されたことは、寡聞にして聞かない。野球にしろボクシングにしろ、競技者の微妙な心理を見事に描ききった名文は数え切れないが、その筆者がマウンドへ上がって投手の表情をのぞき込んだり、セコンドとともにリング脇に控えて1ラウンドを戦い終えた選手を出迎えダメージの深さについてインタビューしたりした、だからこそ名文が生まれた、などという話も聞いたことがない。

その場にいなければ取材でははない、優れた仕事をするためには突撃しなければならない、素材には密着せよ、原稿は頭ではなく足で書くものだ、と言う人間もいるかもしれないが、それはジャーナリズムの勘違いだし、誤った伝統だと思う。

我々がやらなければならないのは、原稿を書くまでにどんな手間をかけたか、などという逃げ道作りにも等しいルーチンワークではない。取材者は、まず自分がどういう視点からどういう情報を受け入れどのように分析してどんな原稿を書きどう責任を負うか、脳味噌を使って考えるべきだ。足よりもまず頭、なのだ。現場にころがっている情報を、田圃に群がるスズメよろしくピーチクパーチク拾い集めその情報量を誇るのは良いが、情報をつなぎ合わせただけの原稿を書いてジャーナリストだと名乗ったら、やっぱり神様はバチを当てたくなるはずだ。

■記者会見で戦えない者、来るべからず

もちろん現場に立ち会うな、というわけではない。スターティンググリッドに立ち入って得られる情報と、そこに立ち入ることによってドライバーのコンセントレーションを乱しチームの作業を阻害する弊害を比べて、どちらを取るか、よく考えてから立ち回るべきだ、とぼくは思うのだ。その結果、ぼくはよほどの目的がない限りスターティンググリッドには立ち入らない。ひょっとしたらスターティンググリッドを歩き回る同業者の中にはぼくのことを「現場を歩いて取材しないヤツ」と思う人間もいるかもしれないが、余計なお世話だ。ぼくはぼくの仕事のために必要ないから、競技者に迷惑をかけてまでそこを歩き回らないだけだ。むしろ、そんな場所にまで入り込んで取材をしなければ原稿が書けない取材者こそ、基本的な能力を身につけるまでは現場に来るべきではない、と逆襲しちゃおう。

ぼくは、現場での取材特にドライバーに対する取材は、基本的には予選終了時の記者会見、決勝終了時の記者会見、それから1日のスケジュールが終了した後のパドックに限るべきだと考えている。もし「競技場内」での取材がどうしても必要ならば、アポイントをとり了承を得たうえで場を設けるべきだ。こうして取材の場を制限し競技者を無秩序な取材から解放する分、記者会見の形態を改善し、多くの競技者ともっと突っ込んだ質問と応答をやりとりすれば良いのだ。

かつて、全日本F3000選手権を闘っていたロス・チーバーは記者会見を終えた直後にこう憤ったことがある。「みんな記者会見では何の質問もしない。なのに記者会見が終わった瞬間、ぼくを取り巻いて話しかけてくる。なんのための記者会見なんだ」

もちろん多数の同業者が同席している記者会見の場で、踏み込んだ質問をするためにはそれなりの知識や能力や気力や体力が必要になるが、それが出来ないようなレベルの取材者は、そもそも記者会見終了後に当事者に直接すり寄る形のインタビューなどしてはいけない。ましてや、自分だけの情報を確保するために記者会見での質問を避ける貧乏根性を持った輩は、現場に立ち入るべきではない。

チーバーは、怒りを通してモータースポーツの取材のあり方を考え直せ、と呼びかけた。しかしそれから何シーズンも経ったにもかかわらず、事態は何ら変わってはいない。あのとき記者会見場にいた取材者のほとんどは、チーバーのことばをきっかけに取材のあり方を自省するどころか、おそらくはことばの意味すら理解することができなかった、ということなのだろう。そんな有様で、プレスパスをぶらさげジャーナリストでございと名乗っていれば、尊敬も信頼も得られるわけがない。

■いつでもジャーナリストになる覚悟

ぼくは、子供の頃からとにかく権威と名のつくものを嫌え、と教育を受けてきた。権威というものはそれなりの力とそれなりの方向を持っているから権威なのだ。その権威を後押ししたところで、状況は何も変わらない。 ぼくは、良い悪いは別にして、とにかくひたむきに権威に逆らう論理的方向性を探ることがジャーナリストの使命だと思っている。権威は真理ではない、などと斜に構えるわけではない。もし権威が真理の道を行くならば、それに逆らい結果的に真理を見誤ったジャーナリストは容易に論破され打倒されるはずだ。それはそれで、社会がやかましい邪魔物を駆逐して真理へと邁進することになるのだから素敵なことで、敗れ去ったジャーナリストは墓の中で正しい道を行く世の中を安らかに見守ればよい。

しかしもし世の中の動きが真理の道を外れようとしているならば、それに逆らい真理を追究するジャーナリズムは本来の機能を果たすことになる。権威を後押ししたり、これが真理だと判定するのは、ジャーナリズムの仕事ではない。真理は、神のみが知るものだ。ジャーナリストとは、自らの見いだした真理を信じ、主張することを仕事とする人々のことである。その過程でイナゴだとか蚊だとか羽虫だとか呼ばれても、自分の道さえ見えているならば、それほど慌てることはない。ぼくには、モータースポーツ界の中でジャーナリズムを振り回さなければならないときが来れば、いつでもそれを振り回し、ブンブンと羽根の音をたてて飛び回る覚悟がある。

だからといって、何も今モータースポーツ・ジャーナリストと自ら名乗る人々にも、同様の覚悟をしろだとかとにかく戦い続けろなどと怒鳴る気はない。自分たちが抱え込んだ課題はともかく、モータースポーツという特殊な構造を持った世界の中のジャーナリズムは自ずと歪まざるをえないわけだし、そもそも呼び名と仕事が対応していなければならないなどという法もないのだから。

ただ、呼び名と仕事が無関係だからと放っておいて良いという話ではあるまい。ジャーナリストと名乗ったり呼ばれたりするからには、せめて「ジャーナリスト」という名に、もう少し気を遣ったらどうかしらん、とぼくは思う。「オレって、アタシって、ジャーナリストと呼ばれたり名乗ったりしているけれど、ジャーナリズムって何だっけ」と少しばかりの頭を回すデリカシーなくして、そしてそのデリカシーをメディアの上で適切に表現する能力なくして何がジャーナリストだってぇの、というのがぼくの偽らざる本心なのである。




解説:
96年秋、「わ」と称する風変わりな雑誌が創刊された。自動車に関わる原稿を発表したい者が、「掲載料」を支払って、そのかわり好き放題を執筆するというしろものだ。この原稿はその創刊号の巻頭に掲載された。自分の仕事を見つめ直しつつ書いた。その後、様々な部分で考え方も変わってきたが、基本的には今でもこう思っている。掲載時のサブタイトルは「モータースポーツにおけるジャーナリズムの可能性」であった。