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 昨年の末、童夢の奥明栄氏と雑談していた折のこと。わたしは、わたしの年老いた両親がいまだに自動車レースに関わる原稿を書き収入を得て生活を成り立たせるというわたしの生業がなぜ可能なのか理解できないでいるという話をした。頭では息子の商売を納得したつもりでも、どうやら心のどこかではそんな得体の知れない仕事で妻一人と猫一匹を養いながらまっとうに暮らしていけるわけがないと疑っている様子なのだ。

 台湾生まれの父親は衛生兵として従軍、外地で爆撃やら機銃掃射やらをかいくぐって生き延び、終戦とともに無一文で内地へ引き揚げてきた。財産としては茶碗を1個しか持っていなかった父親は、いやおうなくホームレス生活に入ったものの電球の露天売りをやりながらなんとか更正、その後は団体職員として勤務し姉とわたしをここまで育ててくれた。15年ほど前には癌のために胃をほとんど切除するという大病を患いながら引き揚げ時代同様土俵際で粘り腰を見せ、最近は少々ボケが入り始めたけれどもなんとかここまで生きながらえている。

 一方、母親は従軍看護婦として赤十字の病院船に乗務していた時代、もし敵潜水艦に撃沈され海に投げ出されたときは襲い来る人食い鮫を自力で撃退しようとジャックナイフを常に携帯していたという勇ましい経歴の割には社会的に臆病な女性で、姉とわたしを「優等生になりいい学校を出ていい会社」路線で育てようとした。母親としては人生は無難が何より、妙な冒険は避けて学歴にすがり安定した一生を送るべきだと考えたのである。

 こんな両親だから、今現在わたしがどんな仕事をしどうやって収入を得ているか理解できないのも仕方がないかもしれない。当たり障りなく大樹の木陰に身を寄せつつ人生を送ってきた人間には、サラリーマンでも公務員でもないフリーランスライターと名乗る立場の人間がなぜ社会に生息しうるのか、なかなか理解できまい。ましてやわたしの場合、取材対象が自動車レースなどという、一体いつ誰がどこでやっているのか老人にはわかろうとしてもわかりえない行事なのだ。両親がときどき言いづらそうに「本当に手が後ろに回ったりする商売じゃないんだろうね」と確認したがるたび、わたしは自分の親不孝を深く反省し心を痛める。だが、しかたがない。これがわたしの選んだ道なのだ。

 とか何とかわたしがこぼすと、奥氏も「うちも同じですわ」と苦笑した。「なんで自動車レースをやって毎月、金がもらえるのか理解できないみたいやね」と。日本を代表するレーシングカーコンストラクターの役員であり最先端の技術者でありF1グランプリカーの設計までやってのけた氏ですら、この有様であることを知ったわたしは少々安心したが、同じだけ落胆した。

 わたしも奥氏も40代も半ばにさしかかった年頃であり、世間の常識で計れば一般社会に対してそれなりの地位も責任も持ちそれを周囲にも認められていておかしくはない世代である。ところが、両親にすら「一体、息子はどうやって収入を得ているのか」と首をひねられているのだから、なんとも情けない。この10年、15年で状況は随分良くなったとはいえ、日本の社会における自動車レースの扱いはこの程度のものだ。夢見がちな若者ならばともかく、よい年をした大人が自動車レースに正面から取り組んでいるなどとは想像もしない人々が、まだまだ山ほどいるということだ。これは何とかしなければいけない。

 わたしは奥氏のようにF1グランプリカーを設計して技術を誇ることはできないけれども、原稿を書くという仕事を通して自動車レースの地位をニッポンの社会の中に確保しいくらかでもそれを引き上げるべく、今の仕事を続けようと思う。そうすればいつか老いた両親も、自分たちの息子の行く末を案じることなく平穏な気持ちで余生を送ることができるはずだし、ファンもより居心地がよくなるに違いないのだ。

 ただ時間はかかる。わたしは、ニッポンで自動車レースが社会的認知を受けるのは、80年代から90年代にかけてF1ブームをくぐり抜けた子供たちが、その後社会人として各分野へ散らばり、そのうえで社会的パワーを発揮できる年代になってからのことだと考えている。つまりはあと20年くらいは平気でかかるということだ。その20年の間、そういう方たちに自動車レースに対する意識を持ち続けてもらうことが、わたしに課せられた仕事なのだと思う。

 問題は、20年後に果たして現在のような形の自動車レースが行われているかどうかだ。どうも、かなりの確率でわたしの仕事は徒労に終わってしまいそうな気配はあるが、現状が少しでも良い方向へ向かう可能性がある限り、わたしは鬱陶しい原稿もサワヤカな原稿も併せて書き続けるつもりでいる。そのうえでなんとか親孝行が間に合えば、それほど嬉しいことはない。

 そういえば、わたしの父親はかつて自動車レースの食わず嫌いで、中学生だった頃のわたしがTVでレース番組を見ていると「こんなもの、金持ちが勝つだけの茶番だ」と言い張ってわたしを苛つかせたものだった。ところが昨年会ったときには聞きかじりの知識をもとに「ホンダがまたレースやれば景気が良くなるかもしれないなあ」と声をかけてきた。30年かかれば、これほど状況は変わるのだ。もっともその時間が短いのか長いのか、わたしにはまだよくわからない。

 
解説:
レーシングオン誌で2000年はじめから連載を始めた「レーシング・オピニオン・コラム」の第2回で、2000年1月27日発売312号に掲載された。初出時のタイトルは「レースのためにわたしができること」であった。このコラムにはあれこれ好きなことを書き、ときには物議を醸しながら現在(2001年3月)まで続いている。
『自動車レースでメシを喰う』