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■このむなしさは何だろう
 私たちJMSは毎年、モータースポーツ界で優れた仕事をした方を探してはその働きを表彰するという活動をしています。しかし毎年、このための投票をしながら、私はむなしさを感じずにはいられません。なぜでしょうか。

 私たち「モータースポーツ・ジャーナリスト」(という呼び名や分類が正当なのかどうかは、この際おいて)自身の仕事が、内輪同士はともかく外部の人間、たとえば肝心の表彰対象から果たしてどれだけ評価されているのだろう、と思わずにいられないからです。尊敬していない相手にいきなり表彰されても、賞金以上の喜びを感じろという方が無茶です。こんな賞に賞としての意味があるでしょうか。

■何かを忘れて、私はむなしい
 こうした思いと同時に、私は常日頃、自分の仕事にある種のむなしさを感じてきました。きわめて特殊で狭い世界における出来事を題材に文章を書き、これまたきわめて守備範囲の限られた(けれども、その分造詣が深いと私は信じておりますが)編集者と共に印刷物を作り、さらに趣味嗜好の極端な読者に売りつける。こうした構造自体は、モータースポーツという困ったしろものに魅せられた我が身に与えられた報いと受け容れることもできます。しかし、元々志の低いところへきて人一倍怠慢な私は、こうしたこじんまりとした構造の中で、いつしか慣れ、怠けて、本来あるべき姿を往々にして見失っているようです。その結果、むなしさはやってくるのです。

■プレスパスはただの通行手形か
 いやしくも「モータースポーツ・ジャーナリスト」と名乗り(しつこいですがこの名称の是非はともかく)プレスパスをぶらさげながら、私は自らの技量を磨いてよりよい仕事を世に問うという本来の使命を忘れてしまいがちです。私たちはそもそも、優れた仕事をしてその結果、できれば読者を楽しませ喜ばせ、さらに許されるならばモータースポーツ界を活性化させ繁栄に導くという大志や、スキを見つけて雑誌社や新聞社を儲けさせ自分はこっそり家の一軒でも建ててやろうという野心を抱えていたはずなのです。ところが、今の私ときたら、志もないままにただ原稿を垂れ流すだけの生き物です。それではあまりに空しくはないか、そもそもそれはひょっとしたら社会に対する詐欺というものではないか、とこのところ私は自問してきました。

■志のないジャーナリストは情報ナマコである
 今、私は折に触れ自分を顧みて、まるで自分が海底に寝そべって素材を飲み込んでは原稿を排泄するだけの情報ナマコにでもなったような気分になっています。それが嬉しいのなら、本当にナマコになってしまえばいいのです。せっかく表彰しても、ナマコに表彰されるのでは優れた仕事をした人々はどうせ喜んでくれまいし、優秀なナマコを目標に研鑽を重ねてナマコ界に参入し我々先住ナマコの生活を脅かす若者も現れまい。大体、オレたちがいなくなって、だ〜れも困りゃしないんだ。いいや、おいらは寝そべるナマコでいよう、これはこれで楽ちんだしな。正直、私はひとり、こうやってうなづくことがあるということを白状しておきましょう。

 その一方で私はかろうじて、文字を連ねて何かを表現する身として、大志のかけら(というよりも粉みたいなしろものですが)を思うこともあります。いい仕事をしたい。いい仕事をするためには、どうすればいいのだろう。何か、ワザがあるのではなかろうか。

■せめてご褒美目当てのほ乳類になろうか
 海底に寝そべりながら私はぼんやりと考え続けてきました。そして、それには褒めてもらうこと、あるいは褒められようとすることが有効なのではないか、と考えつきました。もちろん、褒められるからいい仕事をする、というのでは犬猫と同じではないか、とおっしゃる方もいるでしょう。自分さえしっかりしていればいい仕事はできるはずだ、と。もちろんその通りです。だから、そういう方の自立した仕事のやり方を邪魔しようとは思いません。

 でも私は、褒められること、あるいは褒められようとすること、言い換えれば何か目標を定めることで、ナマコたちが進化のきっかけをつかめるならば、それはそれで素敵なことだ、と考えます。そして、私たちの仕事の意味や価値を業界の内外に知ってもらい、さらには新しい力の参入を促すことができれば、状況はずいぶん変わるはずです。それができるなら、犬猫と誹られても私は喜んでいられる。そもそもナマコが陸上ほ乳類になれるのならば、こんなに嬉しいことはありません。

■JMSも変わらなくちゃ
 ということで、ここでやおら提案をさせていただくことに決めました。何とぞ、この拙い発想の意味を汲んで下さいませ。そして、この提案はともかく、JMSが何らかの新しい方向性を持つべく、検討が為されることを期待してやみません。


                          1996年4月15日
                                    A−029 大串 信

                    『提案します』
        JMSジャーナリスト/ライター大賞(仮名)

■これは一体、何なのか
 1年を通じて発表されたモータースポーツを題材にした文章の執筆者に授与する賞です。その1年に国内で発表されたモータースポーツに関わる執筆作品の中で最も優れた仕事を、JMSが認定し表彰する形になります。

■こんな意味があるかもしれません
 JMSはもとより、モータースポーツに関わる我々の仕事の内容と品質を業界内外に知らしめることができるかもしれません。また、我々自身、自らの仕事を見直し磨き上げるきっかけとなるかもしれません。さらに、若い人々がこの業界の中で、仕事をしていくための足がかりを作ることになるかもしれません。ひょっとしたら、酒場で尊敬されたりもてるようになったりするかもしれません。

■とりあえず手順を案として考えてみました
1シーズンの終わりに、記事1本単位でエントリーをつのります。エントリー資格は、JMS会員に限定しないことが望ましい。というよりもJMS会員には、エントリーを義務づけるべきかもしれません。さらに、しかるべき審査委員会(できればJMS外から広く招きたいものです)が推薦を行い、JMS内外から、審査対象記事を加えます。

しかるべき審査委員会によって、審査を行います。それ以前に、予備審査が必要かもしれません。JMS会員の投票を審査の一部に加えてもいいかもしれません。

最も優れた記事に対して賞を授与します。場合によっては「評論」「レポート」「新人」など部門を設定する必要があるかもしれませんが、個人的にはあんまり細分化はしない方が価値を高められるかな、と思います。受賞作は、発表媒体上に再録してもらい、JMSとしてはエントリーされた記事あるいは予備審査を通過した記事を含めてまとめた作品集を編めれば、いいでしょう。

賞金はどこかの文学賞にならって、次の1年妻子を養って暮らしながら集中して新作をものすることができる程度が望ましいが、なけりゃないで良い。

■少なくともこんな問題があります
賞金を出さないことにしても、きっと、お金がかかります。たとえば審査委員会の運営費ですね。また、JMSには編集者も参加していますから、その扱いをどうするかも、考えねばなりません。審査委員の選定も揉めるんでしょうね、きっと。

以上。:
 

 
解説:
わたしは、1996年いっぱいで「日本モータースポーツ記者会(JMS)」を退会した。退会に先立ち、同年4月のJMS総会の席上、わたしはJMSに対しひとつの提案をした。以下に掲載するのは、総会で行った提案の原稿である。タイトルは、当時国産F1グランプリカー開発プロジェクトを進めつつあった童夢の総帥、林みのる社長の掲げたキャッチフレーズ「そろそろまともに闘いませんか」をもじったものである。この提案は「自分たちで自分たちを褒めても意味がない」という、まことに見当外れな理由から相手にもされずに終わった。日本のモータースポーツジャーナリズムの現状に危機感を持たず、しかもなぜ自分たちで自分たちを褒めなければならないのか、わたしの提案の真意を読みとることもできない団体に会費を納める意味はない。結局わたしはそのまま退会届を提出し、その届けは受理された。で、2002年年始現在、そのまんまだ。
『そろそろ自分たちを褒めませんか』