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 ボウリングの試合に臨んだ選手に向かって「作戦は?」と聞きただしたところで、大した答えは返ってくるまい。望みはただひとつ、「パーフェクト」だからだ。だからこそ、ボウリングの名プレーヤーだった今は亡き須田加代子さんも、こと解説者としてはかなり苦労なさったように見受けられる。なにしろ投球動作に入った選手はまず例外なく「ストライク」を狙っているのだ。ボウリングは、戦略やら作戦やらを軸に語ろうとすると実に始末に負えないスポーツである。

 問題はモータースポーツ、とりわけF1グランプリを頂点とするフォーミュラカー・レースが、非常にボウリングに似た性質を持っている点だ。時折、経験の浅い取材者がパドックでチーム監督を捕まえながら切り込み方に困って、「今日の作戦は?」などとかなり思い切った質問を繰り出すところに出くわすが、「そりゃストライク続けてパーフェクト、じゃないか?」と同業者ながら横から突っ込みを入れたくなったりもする。

 F1放送の名コメンテーターであり、ノバ・エンジニアリングを率いて全日本選手権フォーミュラニッポンに参戦する身である森脇基恭はあっけなくこう言い切る。「一般に、フォーミュラカーのレースには作戦と呼べる作戦はないんですよ。私たちにとっては、いってらっしゃい、さようなら、いいレースをしろよ、と見送るだけ。よくジョークで、素晴らしいスタートをきって、誰よりも速く走ってトップでゴールすることが作戦だ、と言いますけどね、そういうもんです」

 敢えて作戦と言うならば、それはレース前の動きにあたる、と森脇は言う。「たぶん今のF3000は、現場に来る前に9割方クルマを仕上げていないとケンカにならない。残りの1割を現場でドライバーのイメージにどこまで近づけられるか、ということなんですよ」

■サーキットに持ち込むのは9割まで仕上がったマシンなのだ

 極端な言い方をする関係者になると、「週末のサーキットにチームが集まったときには実は本当の競争はもう終わっている」ということになる。ここで言う「本当の競争」は、たとえばタイヤテストで展開することになる。タイヤテストでは、チームはメーカーが持ち込んだ何種類かのタイヤの中から、次のレースに適していると思われるものを選び出すための試走を行う。もちろん試走をしながらそのタイヤに合わせたシャシーのセッティングも進められる。一方、たとえば新しい空力部品やサスペンションといったチーム独自の工夫もテストされることになる。

 「いろいろなテスト項目を決めてテストに臨むんです。でもただはじっこから片づければいいというものではない。独自の工夫をする場合には条件を一定にするためにタイヤは換えたくない。ですから、スケジュールを消化するのが大変です。予定していたテスト項目を全部消化できないことも、もちろん少なくありません。しかもテストしたところで成功するのはそのうちの一部ですしね」レースの週末、限られた走行時間に試行錯誤をしている余裕はない。といって、テスト走行でも、そこでこなさなければならない作業の量を思うと、決して十分な時間があるとは言えない。実際にレースを戦うまでの時間をいかに使うかが、レースで良い結果を出すためのひとつの戦略になる。

 もっとも、レースとレースの間に必ずテストができるというわけではない。そういう場合、次のレースに向けてクルマを9割仕上げるためには、それまで蓄積したデータと、それをどう活用するかを決める作戦会議がモノを言う。森脇氏率いるシオノギ・チームノバの場合、まずレースが終わったときから次のレースへ向けてのミーティングが始まるという。

 「レースを振り返って、状況やらデータやらドライバーの意見やらを分析して、ドライバーが悪かったところはドライバーに反省してもらうし、何かを締め忘れてクルマが壊れたならメカニックが、指示がまずかったのならば監督やぼくが反省する。それを元に、次のレースでは何をすべきか、と会議をするんです。そのとき使うのはこれまで蓄積してきたデータですね。夏場のレースならあちこちの温度が高くなっちゃうけどどうしよう、何かの対策を打たないと、でも対策すると空気抵抗増えちゃうよ、増えないように温度下げるにはどうしたらいいだろう、と。今までの蓄積プラスアルファーを加えて、目標9割にどこまで近づけるか、ということですね」

 こうした会議を通して、チームは「引き出し」を準備するのだ、と森脇氏は表現した。現場で起きると予想されるあらゆるケースを想定し、その対応策をあらかじめ決めて徹底しておくのだ。 「現場で何か問題が起きたとき、このケースならば、答えは”ヘの3番”を出せばいいな、と即応できるように緊急回避項目をスタッフ同士で申し合わせておくんです」
 こうした「引き出し」の量こそがチーム力の差になる。引き出しの整備もまた、戦略と言えば言えそうだ。

■人間のマネージメントが勝負を決める

 問題は、モータースポーツが機械だけの競争ではなく、ドライバーをはじめとする多くの人間が関わる競技だという点だ。チームが9割方仕上げたつもりでマシンをサーキットに持ち込んでも、いざ走らせてみるとドライバーがマシンの状態に不満を訴えることも珍しくはない。そういう場合にどう対応するかも、チームの戦略のひとつではある。

「もしストレートで離されちゃうから何とかしてくれって言われたら、思い切って空気抵抗を減らして走らせてみることはある。でも空気抵抗を減らせばダウンフォースも減っちゃうから、そんな状態でコーナーで我慢できるかって問題と、ダウンフォース少ない状態でタイヤが傷まないか、って問題が出てくる。それは見極めることが必要ですね。結局はこういう変更がいい結果を生むことはないんです。そもそも少ないダウンフォースで、ドライバーが頑張って予選で一発のタイムを出すことはできても、そういう緊張状態を保ったまま決勝で40何周もできるのか?ということになっちゃうんです」

 だから、森脇氏は予選では基本的にクルマをいじることはないと言う。それを聞いて思い出したのは、セッティングを変更したフリだけしてドライバーにそう思いこませて走らせる「心理セッティング」という手法だ。ひょっとしたら、こういうワザを使うこともあるのだろうか。

 しかし「ぼくの記憶にあるうちでは少なくともウチのチームではやったことがない」と森脇氏は言った。「確かに効果があることもあるでしょう。ただ、ぼくはこう考える。ドライバーって、そもそもチームがやっていることを信用していないんだと思うんですよ。すごく疑心暗鬼になっている。そもそも疑心暗鬼になっている人間に対してウチがフェアじゃないやり方をしたら、お互いの関係が成り立たなくなっちゃう。だから少なくともぼくがいる間は、そういうやり方はしない」

 森脇氏は、複雑な機械のカタマリであるレーシングカーのセッティングを進めるうえで、人間の信頼感が重大な意味を持つ、と言うのだ。優れたマシンと優れたサポート体制を揃えながら、組織内の人間関係が崩れて本来の実力を発揮できなかったチームはセナ・プロスト時代のマクラーレンをはじめとして数しれない。そこでいかに状況を整えることができるかは、観客席から見ることはできないながらもはや競技の一部と言うべき戦いであり、戦略である。

 「場合によっては、チームメイトのエンジンの方が調子が良くてオレのは悪い、とドライバーが言い出すこともありますよ」と森脇氏は認める。「だけどウチの方針として9番のエンジンを下ろして10番に乗せる、というようなやり方は絶対にしない。ジョイントナンバー1という扱いである限り、泣こうがわめこうが絶対に。調子が悪いと訴えるヤツに、まったく別のエンジンを与えることはあるかもしれないけど、交換は絶対にしない。これをやっちゃったら、そのドライバーのために働いているエンジニアやらメカニックやらの気持ちがドライバーや決定を下した上の人間から離れてしまうでしょうからね」

 では、ドライバーの訴えをはねつけ、チームの方針を押しつけるのかというと、そうではないと森脇氏は断言する。ドライバーが何かを言うのは、マシンに乗ることのない人間にはわからない、何らかの問題があるからなのだと考えることにしている、と言うのだ。 「決勝の朝の段階でドライバーがどうしてもパワーが落ちていると言うのでエンジンを交換したこともありますよ。たぶん、大丈夫なはずなのにね。エンジン屋さんも首を傾げていたけど、ドライバーがそう言うんだから、きっと我々にはわからない何かが起きているんだと応えてあげた。扱っているものが機械だから目立たないけれども、モータースポーツってすごく人間の感情が関係するものなんですよ。だからその人間の感情が関係する部分を、一所懸命に大切にしておいてあげないといけない。やる気とか粘りだとか、そういう要素をドライバーはもちろんメカニックもエンジニアも自由に発揮できる状況にしておくことが大事なんです」

 フォーミュラカーレースのレースには、確かにヨーイドンとスタートしてからは戦略だとか作戦だとかが入り込む余地はないかもしれない。しかし、実際のレースが始まる前には、様々な部分で頭を使いワザを駆使しなければならないというわけだ。

■レース中にできることは本当に少ない

 それにしても、レースが始まってしまったら、本当にそれ以降はドライバー任せのまま事態が展開してしまうのだろうか。いまや走行中のドライバーとピットが無線でコミュニケーションを保つのは当然だ。無線を使ってペース配分などの指令は飛ばないのだろうか。この疑問に対しても森脇氏は明快に答える。

「レース中に無線で、ドライバーに対してこうしろああしろと指示を出すことはしない。どこそこで事故があったとか、オイルがあるとかそういうインフォメーションをすることはあってもね。耐久レースではペースのコントロールをやりますよ。だって何かをやらせることでクルマをもたせて、燃料補給している間にいくらでも対策できるからね。でもフォーミュラカーの場合は、水温が上がろうが油圧が下がろうが、結局最後まで走らせざるをえない。F1だってそうでしょ。結局エンジンが壊れちゃうまで走らせますよね。水温が上がってきたからってピットインするバカいないよね。もっとも、ぶっちぎりのリードをしていてあと5周どうしようかっていうときはまた話が違うよ。これはかなり特殊なケースだからね」

 レースを眺めていると、タイヤが消耗してブリスターができかかった場合などにタイヤの状態が回復するまでペースを抑える巧妙なペース配分を見せるドライバーがいることに気づく。少なくともノバの場合は、そういうワザはすべてドライバー任せなのだ。
 「ウチのフォンタナは、そういうペース配分がうまいんですよ。今のフォーミュラニッポンでは、1セットのタイヤで200km走らないといけないから、こういうワザが活きる。タイヤに対する取り扱いという点では、タイヤ交換をしてただ突っ走るだけの今のF1なんかよりはるかにシビアですよね」

 もっとも、レース直前にドライバーにある種のアドバイスを与えることはあるという。
「あまり余計なことは言わないんだけど、グリッドについたときに一言二言、言うことはありますね。そいつがその週末に気にしていたことってだいたいわかりますから、たとえばタイヤのことだとかサスペンションのことだとか、それはもう大丈夫だから全然気にすることないぞとか、それが耳に残った状態でスタートできるようなタイミングを選んで話すんですよ。たまにはこれが効くことありますね。タイミングが難しいんだけどね、早すぎるとスタートする頃には忘れちゃうだろうし、緊張しきっているときにはうるさがられるから」

■作戦よりもマネージメントという戦い方

 こうして見てくると、レースをするにあたってチームがこねくり回すのは、戦略だとか作戦だとかいうものではなく「マネージメント」と呼ぶべきものだと言うことになりそうだ。

「F1といえども、オレに言わせれば作戦なんか無いに等しいんだよ。どうせ1回は給油しなければけないんだから、まずは1回給油で走りきれるくらいの量を積んでスタートしよう、と。それで1/3過ぎたくらいでピットインしてリードしていれば、残りは無給油で走りきれるくらい燃料積んぢゃえ、と。でも見ている人にはもう1回給油しないと走りきれないのかなと思わせるとかね、こんなの当たり前すぎて作戦のうちに入らないよ。今年のベルギーみたいに途中でペースカーが入るにしても、それこそ無線を使ってすぐにピットインさせるのは当然だし、その時点でライバルのクルマがどれだけ燃料を積んでいるのかはわかるわけだから、こっちがあとどれだけ積めばいいか計算すればいい。これも当然すぎて作戦と呼べるものではないね」

 もちろん、作戦だとか戦略という言葉の定義が曖昧なだけに、フォーミュラカーレースに作戦や戦略があるかないかという話に結論は出るまい。しかし、森脇氏は、少なくともマネージメントと呼べるだけの工夫やワザが、特にレースがスタートする前に様々な形でチーム毎に繰り出されており、それがレースの勝敗に多少ならずとも影響を及ぼしているらしいことをに説明してくれた。「たとえF1といえども、グッドスタートをして後はミスせずに誰よりも速く走ること、以外に作戦なんかないんだよ、きっと」とどこか自嘲するように聞こえる森脇氏の言葉は、なかなか表舞台に出ることのない彼らが、「策士」として持つ自負の現れと理解するべきなのだろう。

 
解説:
1997年、双葉社刊「F1倶楽部」に寄稿した原稿。第14号、特集「戦略」。タイトルは「シオノギ・チームノバの森脇基恭が解説。見えなかった戦略」であった。当時、チーム・ノバは、ノルベルト・フォンタナとペドロ・デ・ラ・ロサを擁して全日本選手権フォーミュラ・ニッポン初年度を闘っていた。
『見えなかった戦略』