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今回、編集部Iが探してきた素材は「パワーボート」である。日本でパワーボートというと、外洋型の大型の船体にF1エンジンを2基直列に積んで、とかなんとか言う、例の豪快なヤツが有名なのだが、我々が取材しようとしているパワーボートは違う。一人乗りのまるでF1マシンを思わせるようなスパルタンな競技専用のボートなのである。
ぼくは以前からこのボートに興味を持っていたが、世界選手権レースは海外で行われており、日本国内ではレースどころか船体を取材することもできないと思いこんでいた。ところが、近年日本でも台数が増え昨年からは国内でシリーズ戦が組まれるほどになってきたという。
我々は、霞ヶ浦のほとり茨城県は牛堀町で開催される「東京都モーターボート選手権フォーミュラ大会」と銘打たれたイベントへでかけ、試乗と取材を敢行した。試乗のために用意されたのは、パワーボートのトップカテゴリーであるF1(日本では少々規格が異なりF3000と呼ばれる)に準じて製作されたボートで、インジェクション仕様の排気量2500ccV型6気筒エンジンを搭載した船である。全体の重量は約450kg、エンジンの出力は約350馬力だという。
パワーボートの走りっぷりについては、映像を通して予備知識を仕入れてはいた。映像で見る限りその走りは迫力満点、試乗はかなりハードなものになる、と想像がついた。特にコーナリングだ。ボートのコーナリングというと、競艇で見られるような、水面をほとんど真横になって滑りながら方向を変えていく「スライド走法」(と言うのかどうかは知らないが)が頭に浮かぶ。自動車レースで例えるならば、路面のミューがきわめて低い状態でのドリフトである。しかしパワーボートは双胴の船体が水にザックリと切れ込むためか、横方向のスライドがほとんど起きない。しかも船体の最後尾に取り付けた船外機の角度を変えて転回するものだから、そのコーナリングの回転半径はおそろしく小さなものになる。なんでも「横GはF1マシンより大きくなる」のだそうで、それを聞いたぼくは、これはかなり困った乗り物らしいぞ、とそこそこ身構えていたつもりだった。ところが、そんな構えはいっぺんに吹き飛ばされてしまった。
救命胴衣をつけ自前のアライヘルメットをかぶってオズオズとボートに近づくと、試乗の準備をしていた係員のみなさんが困惑した顔をする。「…このヘルメット…」「は?」「色がなあ…」「は?」「…やっぱりこっちに換えてもらおうかな」
差し出されたヘルメットは、やはりアライのフルフェイス型だ。「?」と今度はこっちが困惑していると「問題は色なんですよ。一応、基本はオレンジ色っていうことになっていて」「?」「あの、つまり、何か起きて船から投げ出されたときにですね、救助艇から見つけやすいわけですね」
「おいおいおいおいおい」、と突っ込む余裕もなくしてぼくは言われるままにヘルメットを換え、コックピットの背後に特別に設けられた試乗席にへたりこんだ。と、すぐさまぼくの身体は5点式のシートベルトで、まるで荷物のようにベンチ式の簡素な座席に固定された。ハッチが閉まる。内部には人間が座るに必要最小限な空間しか残されておらず、いやでも閉塞感が高まる。目の前にはモニター用のタコメーターがポツンと設置されている。縁起でもないが、人間魚雷っつーのはこんなのだったのかしらん、とぼくは思った。
コックピットに座るのは、競技にもエントリーしているベテラン、杉浦伊豆美選手である。ボートはゆっくりと岸から離れ、コースへ向かう。エンジンは2000〜3000rpm程度の回転数で回っている。この時点では、「船」としてはむしろ揺れが少なくて穏やかな乗り心地だった。
ところが、十分に岸から離れたところでいきなりエンジンの回転数が上がり、事態は一変した。回転数が5000rpmを超える頃から、異様な加速をし始めたのだ。それはちょうど、トルクフルな4輪自動車で急加速をしたときのような加速感だった。ここでぼくの脳味噌は混乱に陥った。路面と接触するゴム製のタイヤを持ち、ゴムと路面との摩擦力で前進する自動車ならともかく、水の中でスクリューを回転させて推進力を得るボートの原理では、どうしてもその加速感を納得することができなかったからだ。
混乱するぼくをよそに、ボートはぐいぐい加速していき、エンジンの回転数は9000rpm弱にまで達する。これでおよそ時速にして150km/h程度だろうか。しかし狭いコクピットの中から、周囲を流れていく景色を小さな窓から見ると、「これは、ヤバくはないか?」と妙な不安感が湧いてきた。それでなくても、床からはガツンガツンと堅いものが底面を打つ衝撃が伝わってくる。もはやこの速度になると水は水ではなくなってしまうのだ。
ボートは猛然とターンマーカーに接近する。コースは常陸利根川に浮かんだ二つのターンマーカーを周回する形になっている。ぼくの乗ったボートはそのターンマークでのコーナリングに入る。と、そのときボートに急ブレーキがかかった。ふいを突かれたぼくの頭はヘルメットごと前方へつんのめった。「なんだってボートでブレーキがこんなに効くのだ?」とぼくは慌てた。
ブレーキについては、ボートを降りてから解説を受けて、ようやく納得できた。パワーボートは通常、スクリューのみを水中に残し、その他の船体は水面を離れ空中に浮き上がった状態で走るのだという。一般的なモーターボートのように船体が水に浮いていては抵抗が生じるからだ。船体が浮き上がるのは、双胴式の船体の下部に入り込んだ空気が船体を押し上げるためだ。ちょうど、F1グランプリカーのグラウンドエフェクトとは逆の原理である。
このとき空気が入りすぎると船体は舞い上がってしまうから、最適の姿勢を維持して空気の量を調節しなければならない。船体の姿勢は、スクリューの(というより船外機の)角度を変化させてコントロールする。この仕組みをトリムといい、ステアリングに取り付けられたスイッチとペダルを使って操作が行われる。パワーボートはぼくの知っているボートとは似て非なる乗り物であった。
減速をするときにはこのトリムを使って、浮き上がっていた船体を急激に水面に落とし、船体全体で水の抵抗を受け止める。すると、あの急ブレーキが実現するというわけだ。要するに、走行する自動車の上から巨大なツメを路面に立てるようなものだ。
ブレーキングして速度を落としたボートはコーナリングに入った。前につんのめったばかりのぼくの頭は、今度は一転、激しい横Gにさらされて、ハッチの内側側面にガツンと打ち付けられた。これまでぼくが蓄積してきた常識では、絶対に説明できない状況だった。陳腐な表現だがその横Gは、レールの上で急激に転回するローラーコースターを思わせた。
もっともその量ははるかに大きかった。コーナリングの途中、首の筋肉で横Gに対抗すると、脳味噌が頭蓋骨の内側に押しつけられ鼻の奥にツーンとイヤな感触が生じるほどだ。路面に貼り付くスリックタイヤを履いたレーシングカーならともかく、なぜ水に浮いた船がこんな勢いで曲がれるのだ、とぼくの思いは千々に乱れた。狭い室内で翻弄されながら「なんなんだ、これは!」とやり場のない憤りさえおぼえたものだ。
それでもこっちもプロだ。徐々に状況に慣れ、身体や頭の支え方を身につけて、状況を伺ってみた。すると、不思議なことに気づいた。西側のターンマーカーを回り込んで加速するとき、杉浦選手は、一旦ステアリングを外側に切るのだ。言うまでもなく理論上は東側のターンマーカーへ向かって直線的に加速するのが最も効率がよい。なぜ、一旦蛇行するのだろう? ぼくは激しい前後Gと横Gに耐えながら、考えたが、わからなかった。
ボートを降りた後で杉浦選手は言った。「コーナリングを済ませたら、出来る限り早く船体を浮き上がらせたい。それで、風向きを見て、一旦風が吹いてくる方向へ船を向け、船体の下に風を入れて船体を持ち上げる。持ち上がったら、本来の方向へ向いて加速していくんです」
風を読む! 4輪ではありえないワザだ。杉浦さんによれば、風ばかりではなく波も読むのだそうだ。ライバル艇が走った後は水中に泡が混じってスクリューの推進効率が低下するので、水を選ばないと速く走れないからだという。ボートレースではなんと得体の知れないワザが駆使されていることか。
そういえば日本を代表するトップドライバー石川忠明選手は、「セッティングも難しいんですよ」と教えてくれた。サスペンションもウイングもないボートに、セッティングがありうるのかいな、と思うととんでもない。ポイントはスクリューにあると言う。「コーナリングで速いスクリューとストレートで速いスクリューがあるんです。走り方と戦略に合わせて、それを選択しなければならない」
パワーボートは、まったくもってあなどれない。探れば探るほど奥がありそうだ。しかもあのド迫力。しかもあの流麗なボディ。こりゃウカウカしていたらF1なんか吹き飛ばされちゃうぞ、と真剣にぼくは心配になった。
ボートを降りたぼくは、自分の首の筋肉がへたっていることに気づいた。朝から晩までレーシングカートに乗っていても、こんな状態になったことはない。まさかとは思ったが翌朝、筋肉痛が生じて、やはりパワーボートのコーナリングが首にこれまで経験したことのない負担をかけていたのだということを認めざるをえなかった。「それにしても」とぼくは痛む首筋をさすりながら、何度も自分に問い直さなければならなかった。「昨日ぼくが乗ったのは、ボートなんだよなあ。本当に、水に浮いて、スクリュー回して走る乗り物だったんだよなあ?」
解説:
これも1996年、双葉社刊「F1倶楽部」に寄稿した原稿。当時、わたしは毎号、変わった乗り物に乗ってはそのインプレッションを報告するという連載枠を持っており、戦車に乗ったりリニアモーターカーに乗ったりフライトシミュレータに乗ったりしては、原稿を書いていた。そのうちの1回。それにしてもパワーボートはあまりにも強烈な経験だった。その後わたしは、プロの操る2座席フォーミュラニッポンや全日本GTマシンに同乗したり、フォーミュラニッポンを自分で操縦したりしたが、パワーボートの破滅的なコーナリングGと減速Gは、飛び抜けていた。
『パワーボートに乗った』